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2007/06/19

ローティとヴァッティモの「弱い思考」、そして「宗教の未来」

 一冊の書物がある。読み終えたばかりだ。それについて何かのまとめをここに書こうとする。しかし始めて見ると、何かを書けるほどの理解に達していないことに気づく。もう一度丹念に読みなおす。さらには周辺に拡げてみる。関連したいくつかの論考などを、雑誌やネット上に見つけて読むのだ。それでも、やはり書くモティベーションが高まってこない。これは書けそうもないな。あきらめるか。でもこの山を越えないと、ほかに何もできそうにない。精神的窒息状態というか。頭のなかのパイプにプラグが詰まった感じで、それをなんとか抜かないことには、どうにもならない。そんな状態にときどき陥る。何かをブログエントリ上に排出しないことには、前に進めない。そんなエントリが、私のには、ままある。読者には申し訳ないが、自分のためのガス抜きである。これもそれになるだろう。

 宗教(私にとっては、それはキリスト教だが)にも、哲学にも、思想にも、私がたどりつける最終解答などないと、とっくに見定めている。それでいながら、けっこうその手の本を読んでいる。あれこれと手を出し、中途半端に終わることが多いが、ときには深みにはまる。今回のは、その深いヤツだ。最初に「一冊の本」と書いた。これがそのような精神的放浪のなかでの、現在の漂着点である。

 「弱い思考」あるいは「弱い思想」と呼ばれるものが、思想界の潮流になりつつあるようだ。私は、それを "The Future of Religion" (07/7、ハードカバーは05/3刊) を読んで知った。著者のひとり、リチャード・ローティ(Richard Rorty)が75歳で亡くなったとの新聞報道を見たのは、6月12日。予約してあったペーパーバック版が予告より早く出版され、アマゾンから届いたのを読み始めてまもなくのことだった。偶然だが、この書が彼の最後の言葉のように思えた。まだもっとその先を書き続けてほしい人だったが、彼はいうべきこと、書くべきことをすべて終えて、終着点に至っていたのかもしれない。

 この本は、「弱い思考」の提唱者、イタリアの哲学者ジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo)と、この考えの理解者ローティとの対談を主な内容とするものだ。このテーマに関係するそれぞれの小論文と、ふたりを仲介して対談を実現させたサンティアゴ・ザバラ(Santiago Zabara)の解説が付いている。紀伊国屋書店で半年前に見かけたのだが、ハードカバー本で高価だったので、アマゾンで予約受付をしていたペーパーバック版が手にはいるのを待った。

ローティの哲学終焉説 1979年に書かれた代表作「哲学と自然の鏡」で、ローティは営々と続いてきた西洋哲学に、結局何の終着点もないことを喝破した。すべての知の確かな根源を求めて哲学の営みは続いてきた。しかし、とどのつまり辿りついたのは、根源とか基礎など何もないということだった。それを見定めて、哲学という学問の死を大胆に宣言したのがローティだった。体系的な哲学は成り立たない。残るのは、現実の個別的な問題についての語りだけである。体系ではなく啓発のための言葉が交わされる。「解釈」、「会話」、「再記述」などがキーワードである。

ヴァッティモの「弱い思考」 ヴァッティモは、別の流れから出発して、「弱い思考」を提唱した。哲学者でありながら、カトリックであることが特異である。体系的哲学を否定する。大上段に構えた認識論とか、実在論とか、「神」すら、要らない。世の中のすべてを基礎づけ、説明するというようなでかい理論とか、深遠な考えなどを求めることはない。そういう「強い思考」に対して、彼は「弱い思考」を提案した。でかいことを強い口調で述べるのでなく、日々の問題にちょっとした助言を提案してみることぐらいしかできない。そのような控えめな思考だけでいいとする。これはイタリアで始まった慎ましい思想運動だったが、今では大きな拡がりを見せ、日本にも紹介されつつある(たとえば「RATIO03」)。日本訳された書はまだない。ローティの考えと同一線上にあるといえよう。

それでいてカトリック? 体系的哲学の否定は、宗教、特にカトリックにとって問題である。個々が神と向き合うプロテスタントの信仰と違って、カトリックは壮大な哲学体系に立脚する。「弱い思考」を提唱するヴァッティモは同時にカトリックである。どう考えてのことなのか。彼は、神が「みずからを低くして」人となった。それがイエスだ、という考え方を鍵として語っている。その考え方は、聖書のケノーシスという言葉から来ている。

(キリストは)おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(ピリピ書2章7ー8節)

の「おのれをむなしうして」が ”κενοω”(ケノー)で、その行為をケノーシスと呼ぶ。無にする、無化するの意味で、神性放棄などと訳されている。神が自分自身を弱化したのだ。体系的哲学のいう真理そのものを、神が解体したのだ。弱い思考の源がそこにあるとまでする。

キリスト教なしには したがって、ヴァッティモはカトリックの標準的な教義を放棄している。それでいて、教会は必要だとする。キリスト教抜きには西欧社会の歴史と現在が意味を失うとまでいう。キリスト教が、神のケノーシスにたちかえって、変わることを前提にしてのことだろうが。私には、欧米人の社会・文化が今後もキリスト教抜きに成り立ち得ないとする彼の主張はよく分からない。すでにヨーロッパはかなりの程度まで世俗化(キリスト教離れ)している。アメリカが、キリスト教離れできずにいる方が異常に見える。

無神論ではないが反聖職権主義 ローティはみずからを "religiously unmusical" であると認める。ある種の人は音楽を楽しむ感性がない、というのと同じような意味で、自分は宗教に関して感性がない、という面白い表現だ。だからといって、彼はムキになって、神など存在しないなどといわない。何が存在するか、しないのか、という種の議論は、体系的哲学の間違った議論である。弱い思考は、そのようにはいわない。そのかわりに、彼は、現実の宗教には「民主政治にとって危険な」面があると指摘する。聖職者の存在とその制度を問題視し、それが解体していくのが宗教の将来の姿であろうとする。

 さて、こなれは悪いが、こんなところで、私のプラグはどうやら抜けたようだ。おつきあいありがとう。

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