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2007/06/10

「バサラ」だったドジャンヌ

 ドジャンヌ(Pierre-Gilles de Gennes)が亡くなっていた。このところ新聞も、ウェブページもゆっくり見ているひまがないほど忙しかったので気づくのが遅れた。物質科学の理論家としては現存する最高の人だったろう。死亡記事を検索してみると、ほとんどの記事に「現代のニュートン」という言葉が添えられている(たとえばここ)。現在テレビやディスプレイに使われている液晶が、まだ単なる研究対象だったころ、その振る舞いを理解する基本的な理論を築いた人だ。ほかにもさまざまな分野で研究をしている。未知の物質や現象にいち早く目をつけ、その本質を見抜くという仕事をする人だった。1991年にノーベル物理学賞を得ている。死亡原因は明かされていない。74歳という早すぎる死だった。

 たった一度だけ出会いがあった。その天衣無縫ぶりになかばあきれ、かくも自由に振る舞う人だからこそ創造的な仕事もできるのだと妙に納得もした。その思い出を書いてみて、ドジャンヌは、会田雄次のいう「バサラ」だったと思い当たった。バサラとは、何ものにも拘束されず、破天荒に生きるさまをいう。

 1982年9月はじめ、日本ではじめて中性子散乱に関する国際会議が開かれた。中性子散乱とは、研究用原子炉や加速器から中性子のビームを取り出して、試料にあて、その散乱の仕方を調べることで、試料物質の特性のもとを探る研究分野である。日本でも盛んに研究が行われているが、当時はようやく国際的なレベルに肩を並べたという時期だったか。山田科学技術財団の支援を得て、箱根で国際会議を開いた。日本におけるこの分野の第一世代が少し退いて、第2世代ともいうべき私らの世代の研究者が会議の運営をになった。数十人規模の外国人研究者が海外から来た。ドジャンヌは招待講演者として招かれた。磁性と中性子散乱が彼の最初の研究テーマだった。液晶も研究対象として注目されていた。

 会場は箱根芦ノ湖の湖尻を眼下に望む「箱根国際観光ホテル」(現在のパレスホテル箱根か)であった。ホテルを借り切り、みなそこに泊まり、一日中会議を行うというプログラムだった。ある会議の朝、どういう事情だったか、私はパートナーと一緒に遅い朝食をとっていた。国際会議はできるだけ夫婦同伴で参加し、同じく夫婦で来る外国のお客さんを夫人の方がお相手することになっていて、私もそうしていたのだった。向かいのテーブルでドジャンヌが朝食を食べていた。午前中の会議はすでに始まっていて、食堂にはちらほらとしか人はいなかった。ドジャンヌの食べ方に目を見張った。行儀などおよそ頓着しない。むしゃむしゃと口に放り込むというような食べ方だった。この人は、身体が大きい。特に口がでかい。なにかと白い歯をむき出しにする(上記にリンクした記事に彼の写真がある)。それが馬の歯のように、というと、いささか大げさだが、それほど大きい。その口でパンやおかずを食いに食う。まるでけものが捕らえた餌の小動物をうまそうにバリバリ食うというような姿だった。食べるときには、けもののように食べることに集中しているのだ。挙げ句の果てにバターの付いたナイフを大きな舌を出してペロリと舐めた。欧米での食卓マナーとしてナイフを直接舐めてはいけないと教わっていた私らは、その姿にあきれた。今でも、わが家では、ナイフに付いたバターやチーズを舐めることを「ドジャンヌする」と表現し、そのたびにあのときの彼の姿を思い出す。

 食卓を立った彼の後姿を見て、さらにあきれた。下半身は水泳パンツだった。朝、芦ノ湖まで泳ぎにいって、そのままの姿で食堂へ朝食に来ていたのだった。ホテルに室内プールなどなかった頃である。ホテルから芦ノ湖までは、1kmはあるだろう。高低差もある。芦ノ湖の水は冷たい。盛夏でも泳ぐ人は少ないのではないか。9月に入っていた。湖畔のホテルならともかく、長い道のりを歩いて、朝、湖まで泳ぎに行こうなどと考える人はまずいない。彼は滞在期間中、毎日のように芦ノ湖で泳いでいたそうだ。彼はどこでも、どんな機会でも何か運動をせずにおられないアスリートだと聞いた。

 ドジャンヌの「ド」は、「の」の意味で、ドジャンヌは、「ジャンヌの」、すなわち「ジャンヌの領主の」ということだ。このような苗字の人は、先祖が何らかの貴族であることを意味する。ドゴールなどもそれであり、ドイツでは「フォン○○」がそれに当たる。ドジャンヌは、ラテン系フランス人の小柄な体格と明らかに違う、北方系征服民族の血をひいているように見えた。

 会議の2日目の夜、公式晩餐会が催された。依頼されて私は司会役をつとめた。食事の終わったころを見計らって、アトラクションとして和服ショーをした。同伴のご夫人方の何人かに着物を着てもらい、ファッションショーをしながら、和服の種類、着付けなどを説明するという趣向だった。この晩餐会の席に、ドジャンヌは、部屋に置いてあったねまき用の浴衣を着て出ていた。着物ショーの最後に、私は即興で「今夜は女性のキモノを紹介しましたが、男性用のキモノもあります。ご紹介しましょう。そちらにいらっしゃいます。モデルの名は、ドジャンヌ教授です」と、予定外の口上を述べ、ドジャンヌに注目してもらった。みなやんやの喝采であった。晩餐会とあって、ほとんどの人は着飾っていた。浴衣姿で部屋から出ないでくださいと注意書きがあるのに、ドジャンヌはそんな規則などお構いなしに、浴衣姿で現れたことにまゆをひそめる人が多かったのだった。その気まずさを一転させる、われながらうまいひとことだった。

 晩餐会の終了時に、わざわざ私のところに来て、挨拶してから引き揚げる外国の客が多かった。この口上が受けたのかと思ったが、そうではなかった。開会時に、私が本日の司会を務める○○です、と挨拶するところで、私が本日の晩餐会のマスター(master)ですと述べた。こういう場での司会者のもっとも適切な英訳となると、それだろうと判断したからだ。晩餐会から去るときにマスターに挨拶する慣習なのだと、このとき知った。

 ドジャンヌの死を知って、私の知るエピソードを書いてみた。彼は、かくも天衣無縫な人だった。その自由人ぶりが、学問の世界での型破りな発想と業績にもつながっているようにおもえる。創造とは型破りをすることであり、それにたけた人は、私的生活でも型破りを許されるのかもしれない。なにか、これに似たことを読んだなと、ふと思って、書棚に行くと、会田雄次「よみがえれ、バサラの精神」(PHP出版、1987)があった。その中には、

「実力と合理性を欠く旧来の権威の一切を否定、伝統による拘束を排し、思いのままに行動し、財のあるものは財、能力者はその能力のすべてを散じ尽くして生きようとする精神」

とあった。日本の歴史では、信長がその代表的存在だろう。また、

「社会の雰囲気がチマチマしているところでは、チマチマしたリーダーしか生まない。チマチマした芸術家、学者、つまりはチマチマした文化しか生まない。」

とも書いてあった。ドジャンヌは、科学の世界でのバサラだったと、私は思い当たった。

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コメント

アクさんへ

Googleで「Pierre-Gilles de Gennes」を検索すると
映画『キュリー夫妻 その愛と情熱』に名前が出て
くるのですが、これは本人なのでしょうか?
(もちろんアクさんのblogもヒットします)

http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=by_name&id=142238

投稿: shou | 2007/06/11 03:09

shou さん、こんにちは。お読みいただいて、ありがとうございました。

そうなんでね。彼は何ごとにも興味を持つほうで、パリにあるキュリー研究所の医学研究室では、生体細胞の接合や、脳機能の研究をしたそうです。その縁でしょうか、shouさんの書かれた、1997年につくられた映画『キュリー夫妻 その愛と情熱』の製作にも協力し、ものの「配達人」として出演しているそうです。もうひとりドジャンヌの次の年(1992)のノーベル物理学賞受賞者・ジョルジュ・シャルパック(フランス)も、おなじ「配達人」として出ているそうです。これらのことは、私の引用した記事に書かれています。

shouさんの書かれたリンクが長すぎて、コメント欄の表示では切れてしまったようですから、以下に書き直しておきます(ここ)。

投稿: アク | 2007/06/11 09:31

そうですか。型破りな方はどこの世界にもおられるということ、とても興味深く拝見しました。私の領域では最近ではPCRを発明した方でしょうか。ガールフレンドとデートでドライブ中にアイデアを思いついたそうです(もちろん彼は妻帯者)。一次は麻薬中毒でノーベル賞授賞式も周りがちゃんと受け取れるだろうかとヒヤヒヤしたそうです。
 『キュリー夫妻 その愛と情熱』の話が出ていますが懐かしいです。実は今の嫁さんと初めて見に行った映画です。癌研にいたころに隣の物理部の部長さんから優待チケットを2枚購入し、がらがらの映画館で見た覚えがあります。キュリー博士の努力を映画で見てここまでがむしゃらにやらないと一流になれないのかと感じた記憶があります。あれからもうすぐ10年です。自分としてはもうちょっと良い仕事をしたかったと感じる10年なので、これからの10年でもう少し挽回したいものです。

投稿: Aurora A | 2007/06/12 01:14

Aurora A さん

キュリー夫人の映画となると、私らの世代にとっては、戦後まもなく入ってきたグリア・ガーソン主演の「キュリー夫人」でした。やっと精製したラジウムを、夜、もう一度見たいと実験室に出かけてみると、それが燐光を発して輝いているシーンが印象的だったです。ただし燐光を発するとなると、むしろポロニウムとした方が正しいのではないか、と今は考えます。娘の書いた「キュリー夫人伝」を読んだのもそのころで、それが私を科学研究を志向させるもとになったことは、かつてどこかに書いたことがあります。ここでした。

研究には時の運みたいなものがあります。それを呼び寄せるのが不断の努力なのでしょう。

投稿: アク | 2007/06/13 08:52

アクさんへ

ノーベル物理学賞をもった研究者を映画に出演させるなんて、フランスの文化的寛容性には驚かされます。

今、手元に講談社学術文庫「海舟語録」があるのですがそこに以下の文がありました

研究といふものは、死んで初めて止むもので、それまでは、苦学です。一日でもやめるといふことはありません。

本質がわかる人は好きです

投稿: shou | 2007/06/13 15:50

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