« ハーバーマスのローティへの悼辞から | トップページ | キスリング展を観て »

2007/07/08

ある食事会

 思慮深く、ていねいに用意され、和やかに、しかしきちんとすべきところは妥協のない食事会だった。表向きは懇談会だったのだが、じつは食事のほうがメインだった。意義深かった。そのように私は感じた。そのことを書いてみよう。

 井の頭公園に近い駅を降りるとすぐ閑静な住宅地に入る。先日知り合ったばかりの大学教授が、途中まで迎えに来てくれた。その温顔とともに招き入れられた部屋には、すでに何人かの若者が集まっていた。隣接するキッチンでは、教授夫人とこの日の食事会の主宰者(旧約聖書学者のMさん)が、ほとんど準備を終え、前菜を大皿に盛りつけていた。この主宰者が、訪れた教授のお宅を場に、若者たちとの食事会を開催しようとしていた。

 この家で、主宰者を中心とする若者たちの会合が行われてきている。食事をしながらさまざまな話題を数時間話し合う。主宰者と、彼女の要請に応じた新約聖書学者が、議論の軸になってきた。話し合いのまとめが本になった。その本について、このブログに書いた紹介文(ここ)が縁で、私もこの日参加することになった。若者と書いたが、20代から40代までいる。主宰者からすると、若い人たちということのようだ。

 前菜の部は、リビングで映像を見ながら始まった。前菜は3種のカナッペだ。水牛のモッツァレラチーズをハーブの葉に包み、その上にプチトマトを載せたものが、とてもいい味わいだった。ほかに手作りのチーズ・スプレッド、肉のペーストのもあった。ビールを飲んだ。主宰者は、ビールを食前、食中に飲むのを嫌う。ディナーは、ちゃんとしたアペリティフで始めるか、最初からワインを飲むべきだというのが、この人の主張だ。この日は、暑い中をやってきた若者にビールを振る舞うとの当家の主人の方針に妥協したようだ。さて、主宰者がぜひみなに見せたいと予告のあった映像は、バレエの演出家ベジャールのこれまでの活動をまとめた総集編だった。男性バレリーナの鍛え抜かれた身体が創り出す動きと形、演出の奇抜さ。こんなバレエもあったのかと、これまで無縁だったこの舞台芸術を私は見直した。聖書と音楽、それにパレスティナ難民というのが、私の主宰者についての予備知識だったから、その人が長年にわたりベジャールに夢中と聞いて意外だった。

 ディナーのため移動したテーブルには、十人あまりの食器がセットされていた。主菜は、肉の煮込みであった。厚く切り、煮こんだあと、手で割ったようなスモークハムや豚肉のかたまりが、皮付きまるごとの馬鈴薯とキャベツとともに、大皿に山盛りになっている。主宰者が、一人一人の皿に、それを取り分けてくれる。2つ重ねにセットされている皿の、上側の大きなスープ皿を、一人ずつ順番に受け取り、トングを使って盛りつける。まず馬鈴薯を一つ、それに肉のかたまりを二つ三つ、種類をそろえて。煮くずれたキャベツを添える。ホステス役は主宰者に任せ、アシスタントとして控える当家の主婦が、別に用意されているスープを、形のいいスープ・スプーンで注ぐ。煮汁をスパイスなどで味付けしたもののようだ。十余人分の盛りつけがすむまで、じっと儀式のようなサービスぶりを見守る。

 やがて、どうぞ召し上がれ、となる。ナイフとフォークで肉を切り、口に含む。ふっくらと炊き込まれていて、じつにうまい。馬鈴薯を大ぶりに切り、口にする。これもうまい。スープをたっぷり含むキャベツは、口の中でとろけるようだ。やがてワインが注がれる。3本のワインが用意されていて、今日は美味しいものを最後にという順番で飲みましょうと、主宰者は言う。この人はワインではなく「葡萄酒」という。葡萄酒を開ける役を与えられた若者が、ボトルを開け、注いでまわる。最初のものは、若くて芳醇にはやや遠い味だ。パンも配られる。有名店のフランスパンだそうだ。近くに座っている主宰者が、バゲットを手でちぎり、手渡してくれる。あっちのほうではバタールをパン切り専用のまな板の上で、それと組みのパン切り包丁でスライスし、分け合っている。

 そのあたりから、主宰者に促されて、一人の若者が話し始める。この人は障害者の援助支援に携わっている。障害者とのかかわり方の難しさ、そのさいの自分の意識のあり方など(彼らと同じ位置をとれるか、など)を話題にする。すぐ他の人たちが割って入り、意見をのべ始める。私は、話の重い内容と、食べている品のいい食事とのギャップに戸惑いながら、耳を傾ける。

 主菜を食べ終えると、上の皿がスプーンとともに下げられ、つぎに下側の大皿が一人分ずつ持っていかれ、キッチンテーブルでサラダが盛られて戻ってくる。裂かれたレタスに、芸術的ともいえるほど形よく曲がった細いキュウリが添えられている。サラダソースは別のボウルでまわされる。卵をスクランブルするとき用いるバネ・ワイアを先につけた棒状の器具(スターラー?)が添えられているが、これは混ぜ返すためのもので、ソースは注ぎ口から、直接サラダに掛ける。このサラダの皿のサービスも儀式的に執り行われる。細いキュウリは濃い味でとても旨い。上質の食材を選ぶ調理人の眼力に感心する。さきほどの煮込みもそうだが、上質といっても、決して高価な食材を使っているわけではないのだろう。肉は、プレゼントとしてもらったハム3本を使ったという。このキュウリも、そんじょそこらのスーパーにあるとはいえないが、どこに行けばこのてのものが入手できるか、主宰者はちゃんと知っているようだ。

 その間も障害者の話が進む。先生格の新約聖書学者が、問題の本質は「私」から「われわれ」の視点への転換だと、熱く語っている。私は、その文脈の中で先生が口にした「宗教ではないが宗教的な何か」が根底に必要との言葉を、宗教にも宗教的なものにも無縁な者はどう考えたらいいのか、頭の中で思いめぐらす。二本目の葡萄酒が開けられ、再び葡萄酒サービス係が注いでまわる。今度のも、最初のと大差ない。

 大皿が取り下げられ、少し小ぶりの皿が配られる。これまでの二つの皿も、今度の皿も金で縁取りされた質の高いものである。広くないマンションに最近引っ越した主宰者が、それまでキープしてきたお皿のセットを、今日食事会をしている家庭に引き取ってもらったと聞いていた。その食器セットなのだろう。供する食事もさることながら、それを盛る食器へのこだわりにも敬服する。【その後の注記:こう書いたが、このあと主宰者と話す機会があり知った。この食事会の場所を提供した大学教授夫妻が、このような食事会の開催に熱意を持ち、調えた食器一式だそうだ】

 やがて、チーズのコースになった。さきほど配られた小ぶりの皿に、薄切りの黒パンをとり、チーズプレートのまわってくるのを待つ。チーズはゴルゴンゾーラ・ピカンテ、ブルサンを2種、そして柔らかい山羊のチーズなど。たっぷり各種のチーズをとり、黒パンにぬって食べる。3本目の葡萄酒ボトルが開けられる。ボルドーの上物だ。同じように係が注いでまわる。いちばんいいものを最後にと、主宰者が決めていたが、なるほど、さすがいいものだ。しっかりした芳醇な香りと味わいに感心しながらいただく。その間も障害者支援の話が続く。聖書学の先生は「障害」と書くことが、許せないという。「障碍」と正しく書くべきで、「障がい」と書くいいかげんな妥協も許せない、と。障害者のことを英語ではふつう「disabled」と表現するとの話に、こんどは主宰者が、それはおかしいと声を強めて言う。言葉へのこだわりは大事だ、食事と同様に、と私は納得した。

 デザートとなった。この家の主人が、コーヒーをハンド・ドリップで何回かに分けて淹れる。その間に、形のいいコーヒー・カップが、セットされ、デザートを受けるための小皿も新たにそれぞれに渡される。コーヒーが淹れ終わり、金属製のポットに移されてまわってくる。ポットから香り豊かなコーヒーを注ぎ、味わう。苦みがきいておいしい。デザートは、サンド・クッキーと、チョコレート。いずれも私は銘柄に疎いが、こだわりの品らしい。あわせてフルーツの大皿が来る。巨峰、デラウエア、大粒のアメリカン・チェリーだ。もう十分食べたので、クッキーとチョコレートは敬遠し、ブドウとチェリーを少しいただく。

 障害者支援の話は、その仕事に携わる人が、いかに報われないかという実態の話になる。この仕事に生涯を捧げようと思っても、報酬面があまりにひどく、とても家族を養えない。配偶者に別の職種で働いてもらってやっと生活が成り立つ。公的補助はどんどん減っている。この仕事にやりがいを感じて入ってくる人は少なく、仕事がきついのでやめていく人も多い。障害者自身が働く職場の状況もひどい。親が大半の金を負担して、働かせてもらっているのが実情だ。そんな話を、縷々聞いた。

 食事が終わったところで、若者の一人が、明日の仕事の準備がありますのでと、席を立つ。それに引きずられるように、私も、私もと若者たちは席を立っていき、あっという間に、主宰者、主人夫妻、聖書学者そして私が取り残された。障害者の話は、そこで中断となった。これから出るはずだった、ほかの若者たちの抱えている問題も聞かぬままだった。突然の閉幕に、主宰者はいささか唖然とした風だった。これから始まるはずの話題を、若者たちが避けているような感じがした。

 この人は、長年にわたって外国に住み、聖書学者として研究をすすめるかたわら、パレスチナの難民救済運動に関わっている。日本に帰ってきて以来、若者などの勉強会をいくつか作って、彼らの問題を聞き、自分の考えを伝える地道な運動を続けている。この日会った若者たちにしても、一人一人の現状や問題をよく聞き、適切な助言をしたり、進路の世話を焼いたりしている。この日も、介護の現場で過労気味に働いている若者に、食べ物をみやげに持たせて帰したのを見た。

 食事会の間みなで話し合っている事柄、あるいは、このグループが主宰者を先頭に難民救済の運動に関わっていることなどと、きちんとした形で供される食事のレベルの高さとの間に、何か大きなギャップがあるような、ミスマッチのような感じを最初持った。しかし、懸命に食事のサービスをしている主宰者の姿を見ているうちに、私にも分かってきた。この主宰者は、このような食事を、このように供することを通して、若者たちに教えているのだなと。人間にとって食はどんなに大事か。食べるものの質も、調理の仕方も、食事のマナーも、許される範囲で大事にすることが生きる基本だ。それなくして、人間いかにあるべきかなどをいくら論じても、うわべだけで終わってしまう。このように食を大事にすればこそ、そのような食を奪われている人々へのいたわりの気持が持てる。難民相手にいいかげんな食の供給ではすまされなくなる。ここから始めて、すべての面で生きる質を向上させることが、人間らしく生きることなんだ。そんなことを、このきちんと用意され、周到に進められた食事会を通して、若者たちに体験させているのだ。そう、私は理解した。この若者たちは、こんな希有な教師を持てて幸せだ。

|

« ハーバーマスのローティへの悼辞から | トップページ | キスリング展を観て »

コメント

レスありがとうございます。
7月8日付けのブログで、主催者の人柄がにじみでた食事会は、晩餐と呼ぶのがふさわしいもので、贅沢ではない豊かさを備えたもてなしだったことが、よくわかりました。
同席された方々との食後の会話は、やや期待はずれのご様子。
私も少々残念です。
次回のお約束はされたのでしょか。今後とも、差し障りのない範囲で公開していただければ幸いです。
太田道子さんの御著書、ことばは光は、まだ読んでいません。
信仰と社会との関わりを解く、機会になることでしょう。

religiusly unmusical。機知に富む言葉に感心しました。
Richard Rortyのことは、全く知りません。
近くの県立図書館が、哲学と自然の鏡をはじめとして、4件ほど所有しているようです。
ぜひ読んでみます。

ご自愛ください。

投稿: sollers | 2007/07/09 20:49

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/36654/15691899

この記事へのトラックバック一覧です: ある食事会:

« ハーバーマスのローティへの悼辞から | トップページ | キスリング展を観て »