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2007/08/16

『アサッテの人』

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 あまりはやりものは読まない主義だが、今度の芥川賞受賞作、諏訪哲史「アサッテの人」(私が読んだのは文藝春秋9月号に掲載のもの)は、一見私好みで、読み応えがありそうだと、ていねいに読んでみた。読みづらかった。読み進めるのに骨が折れた。真ん中ぐらいまで我慢して、やっと作者は何を書こうとしているか分かってきて、少し読みやすくなった。しかし最後まで読んでみて、あまり感心できなかった。荒削りで、未完成で、書き手としては無責任とも思えるひどい構成の作品に見えた。そのことを指摘する趣旨のエントリを書こうとして、結局もう一度読むことになった。印象が変わった。一つの通した物語として書き上げることができず、つぎはぎした断片のまとまりとして読み手の前に放り出されたように見えたこの小説は、その構成が書き手の周到な計算にもとづくもので、その作為はしたたかなものだと、考えが変わった。しかしそれにしても、問題点はある。それを書いてみよう。

テーマとしてのアサッテ いきなりテーマとしての「アサッテ」のことを書こう。あす、あさって、だから「アサッテの人」とは、明日を越えたさらに未来の人のことかと、読む前に想像したのだが、「あさっての方を向く」(見当違いの方向を向く)のアサッテなのだ。作者の言葉にしたがえば、日常生活の中での「定型」とか「凡庸」に対置されるものとしての「アサッテ」である。日常生活の凡庸に付き合うのがやりきれない。でも我慢に我慢を重ねる。そのきわまったところで突如噴出する「アサッテ」。それは具体的には「ポンパ」とか「タポンテゥー」というような、訳の分からない言葉を口にすることである。そのテーマはとても斬新だ。

アサッテの人、叔父さん 書き手の「私」には叔父さんがいる。父とは15も年の離れた弟で、若いときは同じ家で「私」にとっては兄弟のように過ごした。少し吃る。叔父さんはビル管理会社に勤め、エレベーター管理の仕事をしている。若い奥さんと結婚する。その幸せそうな新婚家庭に数年間出入りする。その奥さんから聞いた叔父さんの奇妙な行動ぶりが話の材料の一つだ。その奥さんが事故でなくなる(その詳細は物語られない。奥さんを亡くすことが、ストーリー上、要請されているような)。叔父さんは、一人で廃虚になりかけた団地に隠棲し、やがて失踪してしまった。この叔父さんは、ふつうに会話している中で、突然「ポンパ」とか、「タポンテゥー」とかを口にするのである。それが何なのか。その叔父さんのアサッテ性の解明がこの小説のテーマである。

小説作りの難しさ この奇矯な振る舞いをする叔父さんを主人公に、「私」は小説を書こうとする。何度か書きはじめ、中断に至った草稿が手もとにある。失踪後の叔父さんの部屋から発見された日記もある。それらを一つのストーリーにまとめ上げようとしても、一筋縄でいかない。難行し、投げ出そうかという気にもなる。そこで、いっそその小説作りの舞台裏をさらけ出しながら、本筋のストーリーも書いていこうか。そうしてできたのが、この小説である(ということになっている)。読み手としては、とてももどかしい。展開が整然としておらず、部分部分の話し手も、その話題と視点も、たびたび交替する。その重層構造に惑わされ、訳が分からない。その上、重荷を負って右往左往する書き手の創作現場に、無理無理立ち会わされる気分で、息苦しくなる。

破綻しているようでいて精巧な構成か 読み始めの長いパラグラフが途切れると、「アサッテの人」の「最終稿」の書き出しはこれである、とあって、作者の手の内にいきなり巻き込まれる。書き出しの、講談調のリズム感で物語られるその部分ですら、すでにして、書いている(キーボード入力をしている)「私」と、最初の一行を書いたところで「ポンパ」を食わされ、書き進められずにいる小説の書き手としての「私」とが分裂し始めている。とても技巧的なスタイルだ。その次すぐに「私」の創作活動の自己分析がはじまり、これから書き進めるに当たっての材料は、これこれと手の内を見せる。この書き出しの続きが書き継がれることはない。小説を書きはじめたという「私」と、全体を通じての語り手としての「私」の分裂は最初だけで、以後語り手として私(=作者)の小説作りが軸になって物語が進んでいく。これはすでに破綻しているように見えるのだが、作者が読み手より先にそれを認めてしまっているのだから始末が悪い。そんなことを責めながら読み進めたあと、もう一度振り返ってみると、最初に書いたように、じつに細かく計算し尽くされ、精巧に組み立てられた創作活動物語になっていて、読者はうまく丸め込まれているのに気づく。

入れ子構造 この小説作り物語と入れ子になって、本筋の叔父さんのアサッテ物語がある。その前段としての吃り脱出物語とか、アサッテ語発音講座などが小さな入れ子としてある。さらにサイド・ストーリーとしての「チューリップ男物語」まである。

吃り解消がアサッテを助長 細部には立ち入らないでおこうとおもうが、吃りとアサッテは、この叔父さんの場合、深く関わっている。叔父は、もともと吃りだった。それゆえに他人との言葉によるコミュニケーションにコンプレックスがあった。ひいては、彼は世界から除け者にされているという自覚を持っていた。ある時ひょうんな弾みで、吃りが去った。しばらく彼は幸せであった。世界と自分を隔ていた言葉の障壁がなくなり、世の中と一体になれると。しかし、間もなく彼はもっと悩むことになる。疎遠であった世界の一員になるためには、一定の言語活動に統合されていかなければならない。それになじめない自分を発見したのだ。世界には「定式に適った言葉」遣いがあり、それにしたがわなければならないことが分かってきた。それに「本能的ともいえる嫌悪感を抱いた」。もともと叔父さんのもっていたアサッテ性が、ここで強く発現することになった。

小説内での解説は? 私は、小説には解説は要らないと思う。小説自体の中で、作者がこういう意味だとほのめかしたり、ましてあからさまに小説の意図を語ることは感心しない。物語を物語として端的に読者に提示し、解釈は委ねる。強度の解釈を露わにしない。語り手と読み手との、その狭間に文学の香気があると考えるのだ。ところが、この小説で作者は、叔父のアサッテ性を分析し、思想的議論を展開する。それはこの小説の場合必要と作者は考えたのだろう。それがこの小説をある種の思想小説にしている。作者はそれでよしとしている。しかし別の語り方もあったろう。叔父の物語をもっと淡々と記述し、その解釈は読者に委ねるという。

解説の一例 作者も気がひけているのだろう。「小説に『内面』は要らないというのが、かつての私の持論であった」と書いている。しかしその方向での小説作りがうまくいかず、こうして作者が小説作りの過程を物語るということになったゆえに、叔父さんの過去の一齣一齣に、作者の解説が入ることになった。それは叔父さんの奇矯な行動を理解する助けにはなるが、語り手たる「私」が物語の隙間にひんぱんに出てきてものをいうことになった。たとえば叔父さんの吃音障害がなくなったときの心境をこう解説する。

 言語障害による「世界から疎外されている」という意識。
 そしてショーペンハウアー風な「世界に囚われている」という意識。
 まだ吃音が幅を利かせていた頃の叔父のうちには、この両者が矛盾し合いながら併存していた。より正確に言えば、一方が他の一方を制御するという相互的な危うい均衡を保っていた。彼の青春期の群像がこの奇妙な均衡によってかたちづくられていたのである。
 その叔父に、吃音消滅というあの一大転換が訪れた。均衡が崩れ、世界の抑圧が彼に押し寄せ、彼をさらい、呑み込んだ。彼は律に囚われて、窒息するような苦しみを味わうことになったであろう。どこか外へ、そんな切実な衝動がたびたび彼を襲うようになるのは必然であった。

 解説のしすぎではないか。しかもこれが、繰り返し出てくるのである。私には、その点がこの小説の問題点のように思えた。


アサッテの普遍的意味? さて、このアサッテは、読者にとってどれほどの意味があるのだろう。叔父さんの奇矯な振る舞いをユーモラスな話として受け取るだけでもいい。しかし作者は何か人間にとっての普遍的な問題を提起したいのだろう。型にはまり、異常なものを許さない、日常の凡庸さに私たちの目を向けさせようとしているのだろうか。日常の言語活動が許容する狭さ、その中での生き難さを語ろうとしているようでもある。

結末はどうなる? この物語の決着をどうつけようとしているのだろうか。叔父さんが失踪する、それはなぜか。そこに最後の興味が集中する。叔父さんは一人になり、他人の凡庸な日常に付き合う必要もなくなり、自由にアサッテ浸りになれた。それが皮肉なことにアサッテの堕落を招く。自発的に突然上から襲ってくるようなアサッテ発語でなく、アサッテの作為的な連発になる。これはもはや真のアサッテではない。定型化への反発のアサッテが、定型化したアサッテになってしまうという自己撞着に陥った。アサッテの人の行き詰まりである。「僕の手からアサッテはとうにこぼれ落ちてしまっている」などという言葉を日記に書き残し、叔父さんは行方をくらませてしまった。

アサッテの存在の耐え難さ アサッテが、私たちの水平な日常を、上から垂直に切り裂く非日常的な何かだとすると、そのようなものは一点としてはこの世に存在し得たとしても、有限なスペースと時間を占めることの難しさを暗示しているようではないか。

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コメント

はじめましてZERO(14)です
アサッテノ人の作者は僕の担任の先生の教え子です
先生がとにかく自慢してました。
それで国語の先生がとにかくこの本を絶賛してました。
あとこの作者の容姿についても褒め称えていました。
これだけ言いたかったです。下手な文章ですみません。
m(_ _)m

投稿: ZERO | 2007/11/15 20:41

変な小説だと思っていましたが面白いですね。何かの夢を追って生きている人たちはアサッテ的な人たちなのではと思います。

投稿: コアラ | 2012/07/22 08:23

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