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2007/08/03

二つの「魔笛」

070803

 先週東京にいた間に、「魔笛」を二つ観た。モーツアルトの有名なオペラである。一つは新国立劇場での二期会オペラ「魔笛」、もう一つは映画化された「魔笛」。実舞台のオペラを観る前々日に映画化されたオペラを観るなんて悪趣味かもしれないなと思いながらも、この機会しかないと観に行って、とてもよかった。二つ目の実舞台のオペラを楽しむのに、マイナスどころか、かえって役立った。このオペラは、これまでも何度も観ている。音楽はすばらしいのだが、ストーリー展開に何か合点のいかない気がしていた。その「魔笛」のストーリーの問題性も浮き彫りになって、よく分かったし、多少無理筋を承知の上で、音楽と演出の妙をパーフォマンスごとに楽しめばいいのだと、はじめて納得がいった。

 最初に映画の方(ここ)。ケネス・ブラナーという英国映画監督によるもの。日比谷のシャンテシネでやっていた。シェークスピア劇の俳優から転身して映画監督になった人で、これまでもシェークスビアの演劇を映画化して成功している。この「魔笛」では、大胆にも第1次世界大戦の戦場を舞台にして、魔笛のストーリーを映画化している。あまり映画を観ない方だから、最近の映像技術のすごいのに驚かされた。戦時の塹壕の中での生々しい現場から、広大な平原を高い視点から鳥瞰するシーンまで、途切れることなくパンするなどどうしてできるのだろうと、そのダイナミックな画面展開に魅せられた。

 もっとすばらしいのは音楽だった。映画館の音響装置はすごく迫力がある。欧米各地のオペラ座音楽監督として高名なジェイムズ・コンロンが、この映画の音楽監督と指揮をしている。映画館で聞いた「魔笛」の音量とダイナミックレンジは、ふつうの劇場でオペラの生演奏を聞く場合に比べて何倍も迫力があった。生のオーケストラの真ん中に立ち、あるいは歌手の歌うのを至近距離で聞いても、これほどの音量はあるまい。音楽の良し悪しは、音量だけではない。かえって大音量はマイナスだろう。しかし映像の迫力と一緒になると、この大音量と弱音から最強音までのダイナミックレンジの広いことが相まって、とてもリアルにはあり得ない迫力を生み出す。最近はオペラやミュージカルの映画化がよく行われるが、この点では映画が実演を越える表現手段となっていることを知った。モーツアルトがこれを聴いたら、これが自分のオペラかとびっくりするのではないか。

 キャストの主役級には、欧米のオペラの有名歌手をそろえていた。映画の場合、容姿や演技力も大事だろう。いい人が選ばれていて感心した。映画では画面いっぱいのクローズアップで表情が映し出される。英国で作られた映画だが、欧米のこれはという歌手が選ばれて、いいキャスティングがされていた。魔笛には有名なアリアが多いが、それぞれが、効果的な演出とともに自然に歌われ、大いにアピールした。特にザラストロ役のルネ・パーペは、容貌・貫禄といい、音量豊かなバスの歌唱といい、出演歌手の中で際だっていた。ドレスデン出身で、ベルリン国立歌劇場で活躍中、今秋何度目かの来日公演をするという(ここ)。チケットが高価で観に行けそうもないのが残念だ。夜の女王役のリューバフ・ペトロヴァもすばらしいコロラトゥーラ・ソプラノで、二つのアリアをさすがという歌声を聞かせてくれたし、凛とした美貌が役によくはまっていた。ロシア出身の人である。他の配役について、いちいち書くのは止めておこう。そう、3人の童子はボーイ・ソプラノが演じ、可愛かった。

 物語は舞台を第1次大戦の戦場に置き換えて展開する。しかし物語の主軸である夜の女王対ザラストロの関係は、べつに大戦で対峙する二つの陣営に対応するわけではなく、ザラストロは、むしろ戦争を否定して平和を願う民衆グループの指導者として位置づけている。それでいて片方の陣営の一部になっているような曖昧な部分もある。もともとモーツアルトのストーリー展開に破綻とも指摘される部分があり、多義な解釈を許しているので、それは仕方がないのだろう。ヒーローとヒロインの大団円を壮大に歌い上げたあと、サイドストーリーのパパゲーノとパパゲーナの方の始末をつける部分は、愛らしいアリアとともにこのオペラの見せ場ではあるが、サービスの付け足しのような感じがする。そこをどうするのか、映画では、それを真正直に扱う。大きな盛り上がりのあと、もう一つの小さな結末をつけ、最後は全員が登場してまるで、オペラのカーテンコールのよう。映画なら、大胆な組み替えがあってもよかったのではないかと思った。

 その点では、二期会オペラ「魔笛」を演出した実相寺昭雄の方がうまく始末をつけていた。主役の大団円を軽くし、パパゲーノ/パパゲーナ物語(パ、パ、パのアリア)にうまくつないだあと、最後をおおいに盛り上げた。実相寺は既に亡くなった人である。今回の公演は、05年3月に実相寺演出で行われたものの再演であった。キャストその他関係者は、前回のビデオから演出の意図を汲み取り、実質的に実相寺演出といえるにふさわしい公演を行ったという。この演出は、高尚な音楽劇というより、エンターテインメントとしての歌芝居に徹したものだった。夏休みに入る時期に子供とのセット券を売って、子供にも楽しめるオペラを心がけたようだ。子供たちのために劇場内の通路沿いに席を配置し、演技中もトイレに行っていいという配慮までしていた。

 実相寺はウルトラマンの演出者であった。この魔笛にウルトラマンの怪獣たちが「客演」している。光る剣劇棒とか、レーザー光線とか、花火とかが登場するのは、さすが特撮専門家と思える。鳥刺しパパゲーノは、宇宙服をまとったような衣裳で登場し、SF映画に出てくるような煙の出る銃で、鳥を撃つ。最初は、なんだか高尚なモーツアルトの音楽とどうかと思ったが、見ているとぐいぐい引きこまれて、すっかり実相寺のペースに引きこまれて楽しんだ。もともとモーツアルトと一緒に台本を作った興業主のエマニュエル・シカネーダが意図したのは、こういう楽しいお芝居だったのかな、と納得がいってくる。よく問題にされるフリーメーソン的な部分(入会に当たっての試練とか儀式)の解釈など、おとぎ話的、あるいは怪獣物語的演出の前では、まったく吹き飛んでしまっていた。

 衣裳(二期会のHPのここに載っている)は、漫画家加藤礼次朗に実相寺が注文してデザインさせた初演のままである。どれもアニメキャラクターのような衣裳だが、それが不思議とこのオペラに合う。3人の童女は宙づりの宇宙船に乗ってゆらゆらと揺れながら、舞台上方から歌う。大道具は新国立劇場の大きな舞台いっぱいに、高くて幅のある大階段を設け、それが回り舞台を使って巧みに別場面に変わる。舞台回転の速さと変化の妙は、さすが生の上演の魅力であった。

 「魔笛」は、ドイツ語で歌われるオペラである。前述の映画では英訳された歌詞が使われていた。「魔笛」はオペラといっても、すべてが楽曲で進行するのではなく、一部は芝居のようなセリフで行われる。この部分を実相寺「魔笛」では、日本語でやり、原本にない自由なセリフになっている。かなりギャグも入る。それが受けて、おおいに笑いを誘っていた。

 肝心の音楽と歌曲のことを書くのを忘れてしまいそうだが、オーケストラは、あの映画のダイナミックな演奏を聴いたあとでは、地味に聞こえた。歌唱も合唱もさすが二期会と思わせた。タミーノ役の小貫さんは、妻の同窓生の息子さんでひいきにしているが、登場時から凛々しい歌い方で光っていた。歌となるとどうしても夜の女王(この日は品田昭子)の二つのアリアに注目してしまうが、どちらも、コロラトゥーラ・ソプラノの難しい高音を見事に歌いこなしていた。

 上記のように、二つの「魔笛」を見たが、それぞれに異なる演出で両極端といっていいほど違っていて、どちらも大いに楽しめたし、両者をほぼ同時に見るという間の悪さも結果としてはよかったと思えた。モーツアルトのオペラは演出次第にこうも変わる。その奥の深さというか、多義の解釈を許す幅広さ、そして根底にある人を楽しませようとのサービス精神などを感じたのであった。

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コメント

残暑お見舞い申し上げます。お久し振りのMiekli@名古屋です。
2つの魔笛、映画と舞台と、面白く読ませていただきました。
最近は、インターネットでの宣伝が充実しているのですね。
私の記憶に残るのは、1985年のブレゲンツの湖上オペラ(花火付き)と、バレエ映画(演奏はベルリンフィル?)です。
実相寺さんは、「無常」(1970)や「曼荼羅」(1971)の監督として記憶していたのでウルトラマンとは結びつきませんでした。怪獣が登場する魔笛とのこと、元々、龍が最初に出てくるので、無理があると言うわけではありませんが、私の好みはその制作時代を反映したものですね。

投稿: Miekli | 2007/08/14 18:12

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