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2007/11/01

九州への旅(1) 50年の隔たりを超えて

071101nkayama

 しばらくブログを空けたのは、10月後半、九州への旅をしたからである。福岡、日田、大分、竹田、阿蘇、熊本、天草とめぐった。観光というより、友人と会うことが目的だった。福岡では高校時代の旧友と50年ぶりにあった。その彼が日田と耶馬渓を案内してくれた。大分では妻と旧知の場所を訪ねた。二人の出会いの地である。竹田では妻の裂織仲間を訪ね、連載ものを書いている機関誌のためのインタビューをした。過疎も極まれりといえるほどの土地に窯を築き陶器を焼く夫と住みついて、織り三昧。じつに面白い人だった。阿蘇から先は、インターネット上での写真仲間4人と合流しての撮影旅行。彼らとは初対面だった。主宰してくれた人の、多方面に亘る創造活動のエネルギーに驚嘆し、異才のフォトグラファーと畏敬している友人と撮影行をともにする充実した日々だった。

 そのすべてを一編で語るわけにはいかないので、今回は冒頭に掲げた写真に写っている3人、NとAと私が、50年の時を隔てて再会した時のことを話題にしよう。この画像は昭和26年(1951年)、私が高校2年、NとAが高校1年の時のものだ。3年生の卒業アルバムのために撮った生物部に所属する生徒と指導教官の集合写真から、3人の写っている部分だけをトリミングしたものだ。後列左からN、A、ひとりおいて右端が私である。当時この3人は折に触れて集まっては、背伸びした知的会話を楽しんだ仲である。Nは現在九州大学名誉教授、Aは経済産業省のキャリアを終え、会社勤めのあと悠々自適の身、一生を独身で過ごした。私はこのあと、大学受験までに物理学志望に転向し、物理研究者の道を歩んだ。この集合写真は、そんな3人の将来を予感させるとも、予想だにつかぬともいえる。

 この3人の思い出話と、思いがけない再会に至るきっかけについては、かつてHP本館とこのブログエントリに書いた(ここから参照)。東京に住むAとはそこに書いた経緯のあとまもなく再会を果たし、その後何度となく会っている。しかし3人で会いたいと願いながら、なかなか実現しなかった。今回の九州への旅の目的の一つは福岡に住むNと会うことだった。私の計画を知り、Aも喜んで同行してくれた。


 Nはホテルのロビーに待つAと私の前に、飄然と姿を現した。「やあ、○○さん」と、うしろから呼びかけられ、50年の隔たりは一気に超えられた。かつての秀才少年の童顔をそのまま残し、変わらず怜悧な人だった。日田へ案内しましょうと車で来てくれた。つもる話もしたかったが、とにかく車に乗り、彼の案内に任せた。福岡から九州自動車道、大分自動車道とつないで、1時間あまりで隣の県の日田市に行ける。50年前の地図しか頭にない私には考えられないことだった。

 日田ではまず小鹿田(おんた)へ案内してくれた。こじんまりとまとまった陶芸の村である。狭い渓谷の川沿いに軒を連ねる十数戸がすべて伝統的陶器作りを営む。水力による唐臼(からうす)で山から掘り出した土から陶土をつくり、足で回転をかける「ろくろ」で器を形造る。それぞれが登り窯を持つ。営々と何百年も営まれてきた生活がそのまま残っているようだ。土は裏山から共同で掘り出し、分けるという。小鹿田焼は裏山がなくならない限りこのまま続くよと、土を運んでいた夫婦は山を見上げながら言う。その向こうでは跡取り息子が土を受け取っている。村落共同体がいまだに残っているようだ。陶器造りに関しては、よそ者が入れないがっちりした共同体なのだろう。他の陶器の里でよく見る外来のアーティストはいないという。私たちの居所から近い笠間や益子もかつてはこのようにあったのだろうと思った。

 日射しが強く、ひどく暑い日だった。九州の小京都と呼ばれる日田の旧市街、豆田町は、町並みを眺めながら通り過ぎるだけだった。Nが私たちを連れて行ってくれたのは、広瀬淡窓(1782-1856)の私塾「咸宣園(かんぎえん)」だった。これまで知る機会がなかったが、江戸末期、ここで学んだ人々の中から、幕末・明治初期の逸材(高野長英、大村益次郎、清浦奎吾など)が輩出したのだ。日本最初の職業写真家として知られる上野彦馬もここで学んでいる。咸宣園そのものは残っていないが、淡窓が暮らしたという伯父さんの家が残されている。その旧家を夕空を背景に撮ると、リンホフ・テヒニカの大判カメラをどんと据えて時間待ちをしていた現代のプロ写真家に出会った。私たち一行はそこから耶馬渓を訪ねた。日田に戻る途上、黄金色に焼けた鱗雲を西の空に見た。大判カメラはきっといい画像を捉えたことだろう。

 NやAと一緒だった昭和26年頃は、まだ戦後の窮乏期、観光などのゆとりもない時代だった。大分市に住んでも、由布院やその周辺の野山を訪ねるのがせいぜいだった。そんな時代だったねと話しながら、大分からでなく福岡からこんなに簡単に(といってもNのドライブのおかげだったが)この地をはじめて訪ねることになるとは予想だにしていなかったと感慨しきりだった。いいとり計らいだった。

 Nは、当時すでに学究を志していたが、その初志を貫徹して、医学部に進みながら家業を継ぐ臨床にではなく、基礎医学に向かい、細菌学と分子遺伝学との二つの分野での研究に一生を捧げた。「細菌学にまだやることがあるのかと、よく人からいわれましたが、まだまだ分からないことがたくさんあるのです」と、未だ残る童顔を輝かせた。研究を始めたころ、DNAの発見と、ついで分子遺伝学の勃興という変革期に出くわし、細菌を分子遺伝学から研究するという分野で幾多の成果をあげ、九州大学の教授として後進を育てた。いまでも週に何日か研究室に出かけるという。若き日、スタンフォード大学に留学していたとき、研究者としての優れた資質に目をつけられたのだろう、スタンフォードに留まって教授にならないかと誘われたという。一生ずっと英語で講義をして苦労するより、研究ひと筋の生活がよいと日本に戻る決意をしたという。クールで研究志向の彼らしい判断だ。

 日田の珍しい食事処で夕食を楽しんだあと、滞在先太宰府でAを降ろし、私らを福岡天神のホテルに送り届け、再会を約して別れていった。配慮が行き届きそれでいてべたべたしない、彼らしい私たちへの対し方に身を任せて、気分のいい一日を楽しんだ。

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