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2008/02/28

理論の「美しさ」(迷い道にいるのか、物理学。その3)

 少し間が空いてしまったが、予定していた「迷い道にいるのか、物理学」シリーズの第3部を書いてみた。自然法則の究極を求める理論物理の最先端が、スーパーストリング理論という迷い道に入り込んでしまっている(らしい)。それはいったいなぜなんだろう。関心はそこにある。今回は、「なぜ」を端的にいえば、1)「自然法則は美しい」という信条と、2)未踏峰を登はんするこの集団作業が、それがあまりに難路ゆえにカリスマ的なリーダー(一人、あるいは少数)に依拠しすぎた、というあたりにあるらしい。そのことを書いてみよう。書いているうちに例のごとく長くなったので、今回は、1)だけにしておく。

問題視する理由 再度断っておくが、私は、物理の研究者であったといってもとうの昔のことだし、今問題にしている物理分野の専門家ではない。この分野では難解で精緻な理論研究が積み重ねられている。その詳細については何も知らない。それだのにこんなことを書き続けている理由は4つある。1)未知を探求する科学の営みにいまでも関心があること。2)科学は、その日本名が示すとおり、科(分野)に分かれてなされているとはいえ、総体として一つであること。3)科学を未知との戦いに喩えれば、戦闘はあちこちで行われている。しかし決定的な戦いは最前線にある。その一つがこの分野であるに違いないということ。だから、退役した老兵とはいえ、戦い、特に最前線、がどうなっているか、その成り行きに関心がある、というわけである。4)さらに、どの戦線にどれだけの力を注ぐべきか、いうなれば戦力(人材と研究資金)をどこにつぎ込むべきかは、科学活動、あるいは学問分野全体、さらには文化活動全般を見渡して戦略的に決められるべきことである。それは、見識のある専門家や行政が行うことだろうが、そのさい世論も大いに配慮されるべきで、それについては一市民として、このような場での発言もゆるされよう、というわけである。

科学はネットワーク 「総体」と書いたことにちょっと注釈をしておこう。科学は「科」に分かれているとはいえ、互いに関連している。経験(観測、実験など)に裏付けられた個別の知が、複雑なネットワークを組んで、総体ができあがっている(体系的というより、ネットワークと、私はとらえている)。ある分野で大きな前進(ブレークスルー)がなされれば、全体の知のネットワークが組み替えられる。そのような組み替え作業で科学という営みは前進してきた。素粒子物理学について、現段階で私たちが予期しているのは、全体に影響が及ぶ大きなブレークスルーであって、場合によっては、世界観、宇宙観の根底が揺らぐほどのものらしいのである。そのことに関心を持たずにおれようか。そんな気持ちでいる。

さらに新たな批判本が さて、このシリーズを書き進んでいる間に、またスーパーストリング理論を批判する本が新たに出版された。ローレンス・M・クラウス「超ひも理論を疑う」(早川書房、08年2月刊)である。著者はこの分野の専門家であるとともに、数々の書籍の出版などで科学の啓蒙活動家としても著名な人である。05年に英語圏で出版されたものだが、日本語訳が今回出版された。スーパーストリング理論批判をテーマにした一般向け科学書の出版が、日本である種のブームになっているようだ。一般向けとはいえ、決して読みやすいジャンルではない。拾い読み程度ならともかく、ちゃんと理解しながら読むには、多少予備知識のあるものでも骨が折れる。それだけにこのブームは不思議なほどだ。

リサ・ランドールも批判側? 批判の本だけでなく、スーパーストリング理論側の言い分も読んでおく必要があるだろうと、その分野の最先端を行く(と思われる)リサ・ランドール「ワープする宇宙」(NHK出版、07/6月刊)を読んでみた。昨年来日し、東大で講演をしたり、テレビに出たり、流行っこの女性理論物理学者が一般向けに、スーパーストリング理論の最近の進展ぶりを、自分の研究成果を中心に、解説した本だ。読み進めているうちに、妙なことに気がついた。この人はスーパーストリング理論バリバリのはずと思っていたら、どうやら違うらしい。スーパーストリング理論と、彼女の専門とする余剰次元ブレーン理論は違うと、区別を強調している。そしてスーパーストリング理論は駄目だと言いたいようなのだ。まだ全部を読み切っていないが、いずれそのあたりも話題にしてみよう。それにしても、このような本が書店で平積みされ、売れているらしい。原書はアメリカでノンフィクションのベストセラーになったという。平易に書いてあるとはいえ、まともに読んだら、けっこう難解な内容である。余剰次元とか、多次元宇宙だとか、ワープする宇宙だとかの目を惹く部分が、はやりものとして拾い読みされているだけなのだろうか。

理論の美しさへの信仰 さて、やっとここらで本題に入ろう。自然法則は美しい。それは経験に根ざす研究者の信念であり、指導原理のようなものである。現実離れして、実験にかかりそうな予測を何一つものにできないでいるスーパーストリング理論に、かくも多くの優秀な物理学者が囚われているのは、理論の美しさに魅了されてのことらしい。信仰とか信条といってもいい。

 ストリング理論の創始者の一人、ジョン・シュウォーツ(シュワルツとも表記される。カリフォルニア工科大)はこういったことがあるそうだ。

 「こんなに美しい理論が、自然を記述していないはずがない」

 早い時期からスーパーストリング理論の指導的役割を担ってきたデイビッド・グロス(プリンストン大→カリフォルニア大、サンタ・バーバラ)は、しばしばこう強調したという。

 「この美しい数学が偶然のものなんてことはありえないから、ストリング理論が間違っていることはありえない」

 あとでスーパーストリング理論運動のカリスマ的指導者として紹介するエドワード・ウィッテン(プリンストン大→プリンストン高等研)は、何度もこう述べて、スーパーストリング理論の向かっている方向の正しさを強弁した。

 「完全に間違っている理論から、こんなにも多くの名案が生まれることはありそうには思えない」

 理論の美しさに対する信念は、別にスーパーストリング理論でいわれはじめたわけではない。多くの理論物理学者が長年信じてきたことで、ほとんどの物理学者に共有されているものだ。しかし中にはこんな極論もある。量子力学の建設者のひとりであり、相対論的電子論の基礎方程式を発見したポール・ディラックは、こう書いたという。

 「自分が考える式に美しさを得るという観点から研究していれば、また人が実際に健全な洞察力を持っていれば、確実に前進する方向にある」
 「実験に合わせるよりも、方程式を美しくする方が重要である」

極論といったのは、二つ目の言明である。同様の信念は量子力学の建設期以降、数学の側から物理理論に大きな影響を与え続けたヘルマン・ワイルの言葉にもある。

「私の仕事はつねに真理と美を結びつけようとするものだったが、どちらかを選ばなければならないときは、たいてい美をとった」

 これは数学者の言葉としてはともかく、現実の世界を探求する物理学ではこの二者択一は間違っている。だがスーパーストリング理論で起きているのは、これと類似した信念にもとづく間違いらしい。

スーパーストリング理論が美しいのは? スーパーストリング理論の何が美しいのか。理論構成を細部にわたり知らないかぎり、その美しさは分からないといわれると、門外漢には口の挟みようがない。しかしどうやら基本的な方程式の数学形式の美しさとか、広汎な現象を極めて簡潔な理論が統一的に説明するとか、そういう美しさではないらしい。じじつ現状ではつぎはぎだらけの理論、間に合わせの解釈の集合体のようななのだ。では、何が美しいのか。何度か出現した驚くべきブレークスルーの衝撃、意外性、達成の満足感などが、集団思考の中で「美しい」という感性的表現に集約されているようなのだ。

革命と呼ばれるブレークスルー 数々の難問が山積する中で、それらを一気に解決する、奇跡ともいうべき考え方が生み出されたことが何度かあった。そこで見通しががぜん開け、研究が加速された。大きなブレークスルーが2度起きた。それぞれ、第1次、第2次スーパーストリング理論革命と呼ばれるほどのことだったらしい。

第1次革命 詳しい説明は避ける。的確に分かりやすい説明をできるほど私も理解していない。第1次革命は「アノーマリー(異常)」問題の解決だった。基本粒子とその間に働く力を入れ、それらを量子力学的に扱うと、どうしてもおかしな結論になってしまう。そのことが多くの研究者を悩ませていたとき、1984年、シュウォーツとマイケル・グリーン(ロンドン大→ケンブリッジ大)が、11次元の超対称ひも理論が、そしてこの次元数の理論だけが、この問題を解決することを示した。これは理論家のコミュニティを震撼させる事件だったらしい。それがあまりに見事だったので、多くの人がスーパーストリング理論は本物だ。きっとこれでうまくいくと信じるようになった。そのことが「美しい」といわれるひとつの理由らしい。しかしその後の展開はすんなりとはいかなかった。また難問が生じた。問題は5種類の異なるタイプの理論がどれも成り立ちうることだった。

第2次革命 もう一度革命が起きた。1995年に起きた第2次スーパーストリング理論革命である。「双対性(デュアリティ)」という概念の導入によるものだった。違ったタイプの理論が、見方を変えるとじつは同じだということである。カリスマのウィッテンが、最初に二つのタイプが、やがて知られている5つのタイプの理論すべてが、双対性という意味で等価であり、ひとつのまとまった理論を目指せることを明らかにした。トポロジー理論などを魔術のように駆使してのじつに見事な洞察だった。ウィッテンは、数学者に与えられるノーベル賞ともいうべきフィールズ賞を得ている。ウィッテンは、一つにまとまるべき理論を「M理論」と名付けた。しかしそれは名前だけで終わってしまっている。それが何であるか、いまだにそれは分からずじまいのまま。そしてスーパーストリング理論は、混迷をきわめている。

美しさが誘った迷い道? こうして「理論の美しさ」を頼りにした探求は、迷い道にいるようだ。理論が美しいからといって、正しい自然法則であるとは限らない。それに、今や「スーパーストリング理論」はごちゃごちゃとして、全然美しくない。

 スーパーストリング理論のすっきりとしたところや美しさを雄弁に語る人々は、それ(美しさ)が、ヒットした基礎物理学の理論はほとんど確実に持っている特徴であるという点では正しいが、夢と現実とを区別できていないことが多い。実際に存在するスーパーストリング理論がもたらす今のところ最善の世界像は、美しくもないし、すっきりもしていない。(ウォイト「間違ってさえいない」、前出)

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コメント

ポアンカレ予想もペレルマンによって包括的に数学的な証明がなされました。

libido scienticaがある限り、人類は究極の物理法則を探し求め、宇宙を統一する法則が解れば人間は次の段階に行くでしょう。

リサ・ランドール女史が、日本の学生と議論しているところはNHKの番組でみました。
彼女の美貌と、彼女がプロとしての科学者の思索の深さに言及したところを覚えています。

アク先生のブログを読みながら、「磁力と重力の発見」を読み直してみます。
ご自愛ください。


投稿: sollers | 2008/03/09 19:57

sollers さん

丹念にお読みいただき、コメントを書いてくださって、ありがとう。

さらに続編を書くつもりでいますが、どんどん深入りし、もっと基礎的なものを読む必要に駆られ、当分まとまりそうにありません。

読むほどに分かってきたのは、究極理論はひょっとするとファンタジーかもしれないということです。かりに理論ができても、確かめようがないということになるか、あるいは、人知で到達しがたい謎を自然が秘めていて、それをああでもない、こうでもないと、議論することが果てしなく続くか、ということです。それでも探求は続くでしょう。

山本義隆さんは、いい仕事をしていますね。彼の著をじっくり読みたいと思いながらも、手を出しそびれています。

投稿: アク | 2008/03/09 21:08

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