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2008/03/04

鵜原の岬にて

 少し旧聞になるが、2月初旬、千葉県外房海岸の鵜原温泉へ行った。顔面神経麻痺を患い入院したあとの気分転換と、温泉浴が麻痺の回復に多少なりと効くことを期待しての温泉行だった。温泉もさることながら、あたりの風光の希有な美しさを知るという余得もあった。かつて与謝野晶子ら文人たちがこの地を愛で、理想郷と呼んだということは、宿探しのときに知ったのだが、実見してみて、なるほどと納得した。

 事後に思いがけないことがあった。一つは例のイージス艦による漁船沈没事件である。滞在中、岬の狭間にある小漁港をいくつか見た。例の漁船は同じ勝浦市にある別の小漁港から出ていったのだ。もう一つ。三島由紀夫がこの岬を舞台にして書いた「岬にての物語」をその後読んだこと。そぞろ歩いたあの岬の風景とこの物語が、鍵と鍵穴のようにぴたりと結びついて、ロマン溢れるものとして思い出された。そうとは知らず無作為に撮ってきた写真を見直してみて、一編のアルバムとしてみた。それも併せてごらんいただこうというわけである。【アルバム→フォトギャラリー、0802鵜原の岬にて

 2月19日、イージス艦「あたご」に衝突され親子が行方不明になっている清徳丸の母港は、鵜原もその一部である勝浦市の数多ある小漁港の一つだ。私たちが訪れたのは、事前の2月6-8日。そのとき何気なく写した漁港の画像にも、新聞やテレビで何度も見た清徳丸とそっくりの型の漁船があった。勝浦市には大きな勝浦漁港の他に、近在のリアス式海岸の、岬に挟まれた入り江ごとに、小さな漁港があり、漁協の支所があった。くだんの川津支所もその一つである。私らが見たあの地で、営々と家族単位の漁業を続ける親子、支えあう近親者たち、そして漁港ごとの漁師仲間の連帯感などを、写真と記憶をたどりながら、身近に感じたのだった。宿で食卓に供されたのは、その人々が漁労して得た近海ものの数々(鰺、金目鯛、ヒラメ、ホウボウなど)だったのだ。

 泊まった宿にも、漁港近くの案内板などにも、この鵜原を文人たちが愛でたことなどが、その記録とともに掲示されている。そこで三島由紀夫が「岬にての物語」という短編を書いていることを知った。古いものだが今でも新潮文庫に入っていて、近所の書店で入手できた。読んでみて、引き込まれた。私たちが見たのと、そっくり同じ状景が見事な筆致で書かれている。書き出しまもなくのパラグラフにこうある(ここで三島は、鵜原のことを「鷺浦」と名を替えている)。

 房総半島の一角に鷺浦(さぎうら)というあまり名の知られぬ海岸がある。類いない岬の風光、優雅な海岸線、窄(せま)いがいいしれぬ余韻をもった湾口の眺め、たたなわる岬のかずかず、殆んど非の打ち処のない風景を持ちながら、その頃までに喧伝されて来た多くの海岸の名声に比べると、不当なほど不遇にみえる鷺浦は、少数の画家や静寧の美を愛する一部の人士の間にのみ知られていて、その誰にとっても、不遇なままの鷺浦が愛の対象であったので、世に紹介する労をとる人はなく、又知人にさえ洩らすまいと力めている人さえあった。だが鷺浦が世に知られぬ理由は、美を保護せんとするこの種の人々の秘密結社(フリー・メイソン)的な態度にのみあるのではなく、ここの風景そのものに一種隠逸の美、世の盛りにあって明媚な風光をば酒宴の屏風代りに使おうと探している人々の目には何か容易に肯(がえ)んじ難いものを与える美が、潜在する点にあったのではなかろうか。

 この短編で、三島は、自分の11歳のころの思い出を、フィクション化して物語っている。病弱で発育の遅れた主人公の少年を父親が心配し、夏期休暇を房総の海で過ごすよう、別荘を借り、母親と妹とともにここで過ごさせる。水泳訓練のための書生も一緒である。しかし少年は水泳を怖がり、もっぱら砂浜のパラソルの下で、夢想にふけりながら過ごす。身体の発育は遅れても、精神は大人になりかけた微妙でアンバランスな年頃である。

 この海水浴場は、鵜原の岬の南に広がる広い砂浜のことだろう。アルバムに掲示板から写しとった鵜原の地図を入れておいた。岬の部分は海に向かって、半開きの掌を突き出したように、凸部(岬)と凹部(入り江、浦)が幾重にも繰り返しているが、その南には平坦な海岸線が延びていて、いい海水浴場になっている。ここまでの引用で、目的を達しているのだが、つい物語の次第も紹介してみたくなった。少し長くなる。終わりの部分へ飛んでいただいてもいい。

 さて、物語の中のある日、海岸のパラソルの下で少年は一人になった。見張り番の書生が泳ぎたくてうずうずしているのを、「泳いできていいんだよ」と行かせ、やがて少年は冒険に乗り出す。岬に向かい、その頂きめざして登っていくのである。三島特有の華麗な修飾語のちりばめられた文体で、その次第が描写される。登り切って、岬の頂きに立つ。こんな描写がある。三島の原文を味わってもらうために引用しておこう。私も岬の先端にたち、同じ巌根を見、波濤の砕けるのを見た。それをこのように表現する三島の文才には感嘆する。

 扨(さ)て私は蝉の諸声(もろごえ)に耳を重たくされつつ、好きな弁天裏の石階を昇り、杜の中の急坂を通って岬の頂きへ出たのだった。豊かな海風がその頂きを満たしていた。私は杜に沿うて、巖と草叢の烈しい斜面をそろそろと海の方へ下りて行った。草からつき出た兜のような一つの巌に身は凭(もた)れ、海をながめ耳傾けた。遥か遥か下方の巖根に打寄せる波濤の響は、その遠く美しい風景からは抽象されて、全く別箇の音楽となり、かすかに轟く遠雷のようになって天の一角からきこえて来るので、めくるめく断崖の下に白い扇をひらいたりとざしたりしている波濤のさま、巖にとびちる飛沫、一瞬巖の上で烈々とかがやく水、それら凡ては無音の、不気味なほど謐(しず)かな眺望として映るのであった。(・・・)私は夢想から醒めた。私は周囲を見廻した。丈高い薊(あざみ)を風がわたっていた。私は今し身を凭(よ)せていた巌の背後遠く、一つの荒廃した小さな洋館が、半ば草に埋まり白い剥げかけた渥青(チャン)もほのかな緑色に反映し、家のぐるりに牧場のような白い柵をめぐらしているのを見た。

 なぜかこの白い洋館に惹かれて、入り江が深く入りこんで、崖が行く手を阻んでいるのを大きく迂回して、その家に近づく。オルガンの音が聞こえる。誘われて、部屋に入る。物音に気づいて出てきたのは、「眩いほど美しい」「ソロモンが愛したエチオピアの乙女」のような少女。「まあ、どこの坊ちゃん?」やさしく促されて、おずおずと会話をしているうちに、とつぜん青年が戸口から入ってくる。「待ってて頂戴ね」とやさしく声をかけ、少女は青年と奥の部屋へ行く。漏れてくる忍び泣きのような声。少年は、子供心に、何か悲劇的なものを感じ取る。やがて二人は晴れやかな表情で出てきて、少年を岬の先端へと散歩に誘う。少年にとっては、それは幸せな時間であった。しかし、二人の間には何かただならぬものを感じてもいた。

 青年と美しい人はなにかひそひそと立話をしていたが、私は巖床に脆き、遥か深い奈落の底にあるかのような海をみようと試みた。少女は走り寄って私を支え、「危いわ、私が掴まえててあげるから・・・・」と云いつつ私の腕を強く握り、自分も共に断崖の下に視線を投げた。私は少女の体の匂いやかな重さと熱さのために却ってめくるめく思いをしたのである。断崖の遥か下方に、不思議なほど沈静な渚がみえた。(・・・)その時私を支えている彼女の動悸が激しくなった。それは揺籃の如く私を揺ぶり、不吉な予感で私を充たした。私は問いたげに彼女を見上げたが、彼女はそれ以上見ることを欲せぬらしく、私を抱き起して立上ると目は彼方の沖へと走らせて目ばたきした。

 やがて、三人は少女の提案で「かくれんぼ」をはじめる。少年が鬼の順番になる。少年はしっかりと目をつぶり、長いこと待つ。何かそうするのが正しいことである予感にとらわれて。その時、何か悲鳴のようなものを断崖の彼方に聞く。目を開き、二人を捜した。駆け回って、ありとあらゆる隠れ場所を捜したがどこにもいない。最後に岬の先端から下を覗き込んだ。

 私は思わず目を下へやった。すると体全体がぐらぐらし、足がとめどもなく慄えた。その深淵へその奈落の美しい海へ、いきなり磁力に似た力が私を引き寄せるようであった。私は努めて後ずさりすると身を伏せ胸のときめきを抑えながら深淵の底をのぞき込んだ。再び覗いたそこに私は何を見たか。何も見なかったと云った方がよい。私はたださっきと同じものを見たのだから。そこには明るい松のながめと厳と小さな入江があり白い躍動して止まぬ濤とがあった。それは同じ無音の光景であった。私の目にはただ、不思議なほど沈静な渚がみえたのだ。私はふと神の笑いに似たものの意味を考えた。それは今の私には考え及ばぬほど大きな事、たとしえもない大きな事と思われた。目がくらみながら私は巖角にひしとしがみついていたが、そこから身を離して起き上ることができたのはしばらくたった後であった。

 つい物語の魅力に惹かれて何カ所も引用してしまった。この短編を三島が書いたのは、昭和20年、彼が20才、終戦の年である。東京帝国大学法学部学生であったが、当時は学業どころではなかった。年譜(たとえば筑摩書房版「現代文学大系」第58巻、三島由紀夫集、1963年刊)を見ると、その年2月徴兵検査を受け、応召した。ところが軍医の誤診により即日帰宅を許され、8月からは学徒動員で神奈川県海軍高座工廠の寮に居住し、日中は勤労奉仕を続ける毎日であった。同じ書の巻末、中村光夫による解説によると、このころ三島は「一億玉砕は必至のような気がして、一作一作を遺作のつもりで」書いたという。

 当時を知る私の年代あたりだと、戦時下の三島の体験は、自分の体験に通じ、現実味がある。米軍機による爆撃は軍事施設を中心に激烈であった。爆撃によって死ぬものも多かった。三島もみずからの自伝的文章の中で当時のことを「いずれ死ぬと思いながら、命は惜しく、警報が鳴るたびに(・・・)、いつも書きかけの原稿を抱えて、じめじめした防空ごうの中へ逃げ込んだ」と書いている。その原稿がこの「岬にての物語」なのだ。周りで現実に起きていることから完全に気持を切り離して、この人は、自分の文学的快楽に耽溺していたのだ。

 そんな三島の若かりし頃の作が、この鵜原訪問をきっかけに、とつぜん現前し、その文学趣味に共感したのは、思いがけないことだった。三島の作品には、海を舞台に、海を特別なものとして文学化しているものがいくつかある。思い出すのは「潮騒」そして「午後の曳航」。後者は私がアメリカに滞在中映画化されて、話題になっていた。そのタイトル "The sailor who fell from the grace with the sea" から、日本語のタイトルが思い浮かばなかったのを覚えている。それにしても「海の恩寵から見放された船員」とは、うまい翻案だ。三島の遺作となったのは「豊饒の海」。海を、人を惹きつけ、拒み、怖れさせ、戦わせるものとして何度も書いたのは、この11歳のときの鵜原の岬での体験が原点にあったのではないか。

 あの戦争の真っ只中、死を覚悟していた三島が、遺作の一つとして創作に手を染めたとき、幼い時期に一夏を過ごした鵜原のシーンが思い浮かび、それが触媒として作用し、一編の物語に結晶化した。それほど印象深い場所であることは、実際にそこへ行ってみると納得がいく。同じような岬は日本各地にあるだろう。しかし踏み込んだとたん、周りの世界から隔離された別天地という感が、これほどする場はめずらしい。ただし、訪れる人の少ない時期でないと、そうはいかないだろう。

 鵜原の入口にある案内板に書かれていたことによると、この岬あたりの別荘地としての開発は、大正末期に鉄道大臣大木達吉の秘書が発案して始まったという。別荘分譲地を「大臣村」と呼んだこともあるらしい。「鵜原理想郷」の名付け親は、その大臣らしい。昭和2年に外房線に鵜原駅が設けられ、ここに別荘を持ったり、そこを訪れる人々が増えた。とくに文学者、芸術家らから愛された。与謝野晶子は何度かこの地を訪れているらしいが、記録に残っているのは昭和11年4月のことである。鉄幹がなくなった翌年のことである。このときは石井柏亭と有島生馬をともない、岬の一部、毛戸にある知人の別荘に滞在した。その時に数多くの歌を詠んでいる。紀行文と詠んだ歌とを「明星」の後継誌「冬柏」に載せている。宿には76首もの歌が掲げられていた。大正14(1925)年生まれの三島が「峠にて・・」に書いた物語が、じっさいに本人の11歳のときの出来事とすると、全く同じ年のこととなる。ほかに安井曾太郎もここを訪れ「鵜原風景」を描いている。

 今回泊まった宿は「鵜原館」である。岬の根っこを抑えたような位置にある。冷泉を汲み上げ、温泉としている。普通の浴場(展望風呂)のほか、いくつもの湯がある。中でもトンネル風呂というのがめずらしい。旅館のある場所は南の海に面しているが、そこから西へ向かって十数メートルほどトンネルを穿ち、西の海岸を望める斜面に出て、そこに湯屋を立てている。夕刻西日を浴び、眼下に鵜原海岸を眺めながらの湯浴には格別の趣があった。

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