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2008/06/29

3度目の「岩波『哲学』講座」を手にして

 岩波書店が、また『哲学』講座を出すという。いまさら、こんなものを読むか、と自問自答して、しばらく躊躇した。しかし、第1回配本の「心/脳の哲学」のいくつかの論考に惹かれて購入することにしてしまった。書棚のたんなる置物となることは分かっているし、蔵書として持っていたところで、今後活用する機会もあまりないだろう。なにしろ年なのだから(後期高齢者、目前である)。それだのに手を出してしまうところに、自称「教養人、書斎人」、哲学ディレッタントの弱みがあるのだろう。

 これまでさまざまな哲学書を囓ってきたなかで、哲学が自分に何の最終解答を与えてくれない、その意味では無用なものであると、とうに結論を出している。これは私の独りよがりではない。哲学者自身もそのようにいっている。ニーチェが哲学の終焉を宣言し、ローティは体系としての哲学の役割は終わった、ありうるのは文芸批評と同じ役目、思想の解釈学だけだという。デリダは、(読んでいないが)哲学の脱構築を唱えた。自分としても、そのような文脈の中に哲学を位置づけているのに、なぜ今さら全15巻の「哲学講座」なんだ。何でそんなものに手を出してしまったのか。ほんと、自嘲気味である。

 哲学に何も期待するものはない。それなのに哲学からバイバイできず、相も変わらず哲学が気になってしまう。無用なことと知りながら、無用であることを何度も確認せずにはいられない。そんなアンビヴァレントな気持ちなのだ。こんな私のような輩が、ほかにもたくさんいるに違いない。だからこそ、哲学書出版が成り立っているのではないか。

 これで岩波講座『哲学』を手にするのは、3度目となる。戦前、私の生まれるより前、最初のものが出されたらしいが、それは見たことがない。父の書斎にもなかったと思う。私にとって最初のものは、1967から69年にかけて出版されたものだ。ちょうど学園紛争が勃発し、燃えさかり、69/1/18-9、東大安田講堂攻防戦で終わった時期であった。学問することの原点が問い直され、自己否定が一世風靡した。ものの考え方が、根底から揺さぶられるような状況の中で、講座第1巻(『哲学の課題』)に収められた、滝沢克己『万人の事としての哲学』が、なにか指針を与えてくれるように思えて、何度も読み返したのを覚えている。

 2回目の岩波哲学講座は、1985年から86年にかけての「新岩波哲学講座」全16巻だった。科学哲学という本流でない分野から出た大森荘蔵が筆頭編集者となり編纂された新講座には、もはや旧世代の哲学者は見あたらず、キーワードも旧来の哲学のジャーゴンから新しいものへと変わっているようであった。しかし、私はこのシリーズを手元に置きながら、ほとんど読んだ覚えがない。その形跡もない。物理研究者として真っ盛りの時期で、目を通すゆとりなどなかった。これを買っておくことで、辛うじて哲学とのつながりを持っていたかったのか。

 今回の講座はこれからだが、ほとんどの巻のタイトルが、「○○/△△の哲学」となっているのが目立つ。心/脳、言語/思考、知識/情報、といった具合である。また全巻の編成は大きく「哲学の求心力」と「哲学の遠心力」とに二分されている。前者は哲学固有の問題、後者は応用問題とでもいうのだろうか。この「/」について、講座配本に毎回に付けられている「月報1」で編集者の野家啓一が対談の相手伊藤邦武に

 今回の講座の各巻のタイトルにあるスラッシュ(/)、たとえば「知識/情報」「社会/公共性」ですが、これは不易と流行という面もありますけれども、それぞれの一組にある、つまりある問題点において生じている、「ずれ」、あるいは連続と断絶を意識している、そういうスタンス、スタイルの表現であると、私は理解しています。

と説明し、伊藤も「伝統的な問題と現在の問題意識の交差という企図が典型的にタイトルにあらわれている」と受けている。

 そういうことなのだろうが、この記号にそんな意味の含みを持たせてタイトルに持ち込むことに、なんだか腰の引けているのを感じ取ってしまう。たとえば、第1回配本の「心/脳の哲学」を考えてみるがいい。タイトルを分けてみよう。「心の哲学」はありうるし、そのような表題の書籍は多く見かける。でも「脳の哲学」はちょっと変である。「脳の科学」だろう。「心」を哲学として論じるさい、心は脳の機能にすぎないというおおかたの常識とそれへの反論を「心/脳」という表現で曖昧なまま取りこんだつもりなのだろう。そのような逃げを感じてしまう。少なくともこんな表現方法は哲学に似合わない。

 哲学は、理解できることの究極を求めるという点で、起源においては物理学と同根であり、互いに影響し合う点で、20世紀にあっては、物理学ともっとも接点があった。物理をやるということと、哲学することが近かった。物理学から哲学へと関心を移していく人がけっこういた。大森荘蔵も野家啓一もそうであった。私も生半可ながらその道を試みた時期があった。

 今では哲学自体が固有領域を失う反面、接点は多方面に拡散し、工学とか、情報科学とか、生命科学とか医療とか、さまざまな分野と接することが多くなっている。たとえば、情報科学、認知科学、神経科学などをやっている人が、かつて哲学の問題であったことに直面し、それぞれの科学の方法で解明しようとしている。かつて物理学者が、哲学固有の問題であったものを解明してきたように。

 さて、今回スラッシュで逃げているような問題領域が、哲学者の固有領域とはいわないまでも、哲学者の出る幕がある問題として残るのだろうか。哲学者はいつも「個々に分散した知の総合・統合の役目を担う」といってきたのだが、どうなのだろう。私はせいぜい哲学的思考の道具箱(概念とか論理)を提供する役目しかなく、最終的には固有領域のない学問領域(思考のトレーニングコースとか)として生き延びるしかないと思うが、どうなのだろう。それをせめて、この講座で見極めたい。今回の購読の意義はせいぜいそのあたりだろうか。

 もう少しいいたいこと。まず、このような「講座」シリーズという出版形式である。岩波は「物理」、「情報科学」、「転換期における人間」など、さまざまな分野でこの形式の「講座」シリーズをやってきている。世界に類例を見ない出版物ではないか。「物理」とかの自然科学系は体系としてまとまりがあるし、大きな分野をひとりの著者がカバーしているので、大学、大学院レベルの教科書セット、あるいは専門家の参照図書としての意義があろう。しかし哲学となるとどうか。内容は小分けされ、分担執筆だから、ばらばらでまとまりがない。哲学者が百人いれば、百の哲学があるといわれる学問分野だ。仮に体系があるとして、それをテーマ別に分担執筆したとき、多少のニュアンスの違いはあっても、大方が納得するような内容になっているかといえば、およそそんなことはないだろう。現にひとりの執筆者は、その論考の書き出しでこんなことを書いている。

 本講座は「哲学」を標榜し、編者・著者たちは哲学プロバーの研究者で、出てくる議論も多くは哲学業界の内部ネタであろう。その既知性によって、ここでの言説の哲学的な性格と質は保障されているのだろうか。つまり、学説史的検討を含めて「哲学」的言説空間内部での再生産にいそしみ、せいぜい個人的発見や時事的要素で潤色してわかりやすさを仮構し、支配的な知識流通と消費のメディアに乗ろうとするだけで?
 それは疑問であろう。(中岡成文『経験批判としての臨床哲学』、第1巻『いま〈哲学する〉ことへ』233頁)

 言葉は難解だが、つまりこのような講座形式そのものと、分担執筆に疑問を呈する一方で、自分の執筆項目については、自分なりに書きますよ、と逃げているのである。そうして成り立ったシリーズの中身は、てんでバラバラ。ひとつの項目で或る著者が書いていることと、別の項目で別の著者の書いていることに統一・整合性がないどころか、まったく無関係あるいは撞着しているのだ。哲学はそういうものなのだろうが、それなら筆頭編者と思われる野家が月報1の伊藤との対談で書いている、

 一方で、哲学はすでに『万学の女王』ではないとか、基礎学としての役割は終えたという声も聞こえてきますが、哲学はやはり分散した知の総合・統合の役目を、それぞれの時代に担ってきた。ですから、そうした抽象的で茫漠としたイメージがある哲学の、現在における統一的な像を形づくる、現段階における総括をする役目が、講座には積極的にある。

などという主張はナンセンスなのではないか。

 以上読み返してみると、「哲学」に対して、とくに「講座哲学」について、批判しながら、未練たらたら、われながらいやになるほどウジウジしたことを書いている。いっそ、きっぱり見放せばいいのに、と思われても仕方がない。ともかく、哲学と私は、そんな妙なねじれた関係なのだ。

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コメント

 哲学とは何か?
 一言で言えば、私たちが生きているこの世界の成り立ちと仕組みを造った根源的な原理があるかという問いを自覚的に意図的するところに成り立つものです。
 そして、その根源的な原理は、結局この世界の成り立ちと仕組みを創った創造主である神とでもいうべき存在が存在するか? という問いに行き着き、創造主である神の存在証明の問題になります。
 しかし、これまでの哲学では、創造主である神の存在証明ができず、これを諦めてしまっただけでなく、神の存在証明に失敗していることを知っているのに、「神は死んだ」とか「この世界の成り立ちと仕組みを造っている根本原理は無い」という嘘でたらめ振りを発揮して、その無能ぶりをさらけ出している、ということでしょう。
 これを救うには、ヒトが勝手にでっち上げて作ったのではない、天然自然の存在の創造主である神の存在証明をして、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きでこの世界の成り立ちと仕組みを根本から説明し直すしかありません。
 これは、同時に、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きに直接根拠のあるヒトの生き方の原理の発見と、これをハウツー化した潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法にならなければなりません。
 その試みをしている次のブログ。
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
 一般法則論 

投稿: 一般法則論者 | 2008/06/30 03:02

一般法則論者さん

存在証明などというものは、「妄想」だと考えていますが、まあ、どうぞご随意に吹いてください。

ただし、このブログコメントはこれ限りにしてください。以降は何を書かれようと、公開手続きはしません。

投稿: アクエリアン | 2008/06/30 19:40

哲学といえば、西周の造語だったことを思い出す程度ですが、ああでもない、こうでもないと生きることをこねくり回した結果を哲学と呼ぶから何でもかんでも入った闇なべのようになってしまうのではないでしょうか。
 宗教から科学までごった煮にしてしまったから、もう味もなにもあったものじゃないので、どうも食欲が湧かないというのが実感です。
 ジャガイモは牛肉だろうと思っていたら、豚もうまいといわれ、なるほどと思っていると鶏肉もあれぞと教えられ、いやいや、猪だって馬だって、鹿だって、挙句の果ては、魚だってあるぞ、とそそのかされ、ええい!面倒くさいから全部ぶち込んじまえ!ってんで岩波が出来た?
ような気がしますが、暴論でしょうかね?

投稿: 魔法使い | 2008/07/03 11:04

懐かしい岩波の哲学講座……

現在、哲学の課題は、切り刻まれて、個別科学に適応するように変形され、現場化、矮小化されてしまったと思います。

哲学は、質問能力の、議論力の、課題発見力の養成と洗練の場として、生き延びる可能性はありました。学説解釈や思い付きの拡散の場ではないはずでした。

死闘の議論がない哲学はもう死んでいるのでしょう。

投稿: 安西光彦 | 2011/01/30 02:00

安西光彦さん

哲学はもう死んでいる、とのご意見、私も同じ考えです。

しかしながら、哲学は知を愛する人を惹きつけ続けています。人間は「生の意味は何か」、「世界はなぜ存在するのだろう」と、みずから問う宿痾を持つまでに進化した動物なのでしょう。

その問いへの回答はどこにもない。そのことを知ってしまっても、そうなんだよね、と確かめるために、哲学書を読むのです。

私は依然として、哲学書を買い続け、読み続けています。

投稿: アク | 2011/01/30 12:33

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