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2008/08/02

『アースダイバー』(中沢新一)

080802earthdiver

 東京凸凹地図について書いた(ここ)ときに、Jack さんがコメントで、この本のことをご教示くださった。さっそく読んでみた。東京の地理を考察したものとして、極めてユニークな本である。とても面白い。台地と谷とが複雑に入り組んだ都心部と、その東に拡がる下町との地形に注目する。地形と縄文以来の歴史を手がかりに、台地と低地の境目や、低地そのものに、地霊とか、死霊の気配をかぎつける。そこから著者の想像力は高く飛翔し、事実とも妄想とも見分けのつかない話を紡ぎ出す。少し紹介してみよう。

 著者、中沢新一の高名は耳にしていたが、およそ私が読むもののジャンルではなかった。初お目見えである。読み始めて驚いた。ニューアカ(ニュー・アカデミズム)系の学者は、こんな途方もないものを書くのかと。「エピローグ」に到り、こんな「詩的な作品を作り上げること」は、著者の長年の夢だった、と書かれているのを読んで納得がいった。そうなのか。実証的にはどうかと思われることがたくさん書いてあって、いぶかしく思いながら読んできたのは、間違いだった。最初から、文学的創造物と思って読めば、十分楽しめたのだった。

 しかし、文化人類学者、宗教学者を名乗る著者がいつもこんなものを書いているのだろうか。そんなことはあるまい。じゃあ、この人は何者なのか。気になって、ついでのことに「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」(島田裕巳、07年)を読んでみた。中沢を理解するのに役だった。その中で引用されている浅田彰との対談で、浅田がこういっている。

 (中沢さんは)この現実と違う世界をエキゾチックに描き出して若者たちを誘惑しているとは思わない。一見そのように読める部分でも、それは本当はユーモアをもって書かれていて「よくこんなこと言うぜ」と言って笑いながら読めるようになっている(笑)。そんなことも分からないやつはたんなる馬鹿でしょう。

 これはオウム真理教問題について中沢が書いたものについて言われているのだが、同じことは、この「アースダイバー」にも当てはまるのだろう。著者は学問的な考察を書いているのではなく(まともな部分もあるのだが)、遊んでいるのである。それにしても、島田裕巳の真面目ぶりは対照的である。島田は真実を探ろうと地を這うように中沢を吟味し、他方、中沢は軽く飛翔して、高笑いしているような印象だ。

 のっけから批判めいたことを書いてしまった。少し戻して、本書の内容を見ることにしよう。

 東京の地形に関心を持って散策する手がかりは「縄文地図」である。縄文人が見ていた東京の地図である。

 今から2万年から1万5千年前頃にかけての最終氷河期の最寒冷期には、海面は現在より150mも低く、東京湾は陸地化していた。その後、気候は温暖化し、海面は上昇してきた。5〜6千年前には、海面は現在より3mも高かった。この時期を「縄文海進」と呼ぶ(「図説江戸考古学研究事典」、柏書房、01年から)。その時代の地図を、中沢は協力者とともに作り上げ、それを「縄文地図」あるいは「アース・ダイビング・マップ」と呼ぶ。本書の巻末に39cm×25cm の地図が折り込みで付いている。上の画像はその一部である。肌色というか薄茶色の部分が縄文海進時期の陸地、濃いブルーは海だったところである。現在は前者が台地、後者が低地となっている。地学的には、前者は洪積層、後者は沖積層である。

 この地図は面白くて見飽きない。洪積層の境界線は、すでに正井泰夫の「大江戸新地図」(「城下町東京」原書房、87年、などに付録)に描かれていたが、海と陸とに塗り分けたところがユニークである。東京は、陸地と海が非常に複雑に入り組んだ場所だったのだ。中沢は本来の意味から外れているのは承知の上で、フィヨルド状の海岸地形と呼ぶ。もっとも海はフィヨルドほど深くなく、水深わずか数メートルの浅瀬であった。私の東京居所は、曙橋あたりの入江に面した水際ぎりぎりのところだ。そこから市ヶ谷の外堀沿いに飯田橋につながり、そこで神田川となった台地深くまで切れ込んでいる湾に合流している。例えば、こんな具合に読み取って想像を巡らすと、興趣は尽きない。

 しかし、中沢の意図は、そんな地形的興味に留まらない。その地図に縄文の遺跡、古墳など、さらに神社と寺を書き込んでいくと、それが台地の突端(岬)や、台地と低地の際に集中していることに注目する。そのような場所に縄文時代から古墳時代に人が好んで住み、漁労をし、貝を食べ、貝塚が形成されたと考えるのは当たり前のことだが、中沢は、そこが霊的な場所であるとする。そして、その後の歴史の中で、あるいは現在も、その霊性は人々の無意識に影響を及ぼし、町の形成や性格を決定づけたとする。この地図をもとに、地形とその霊性がもたらす関連を探る試みを、中沢は「アースダイバー」と称する。霊性を探るという色眼鏡(ゴーグルと中沢はいうが)を付けて、地面を這い回ることをダイバーになぞらえたのだろうか。

 霊的と中沢が言うとき、それは「死」の匂いが濃い。いわば、「地霊」は「死霊(タナトス)」である。

 例えば、東京タワーは、芝の台地の一つの岬に位置する。縄文以来の死霊の王国であった場所に建てられた。増上寺裏は古墳群のある場所で、縄文以来死者を弔う場所であった。戦後電波タワーが建てられることになったとき、死霊がその塔をこの場所に呼び寄せたのだとする。電波タワーは天に向かって建ち上がるというのではなく、死者の国への架け橋として立っているのだと書く。

 大学の立地も同様だという。慶応、早稲田などの大学の場所は、古い神社(慶応の場合、御田八幡神社、早稲田の場合、穴八幡宮)と霊的に強く結びついていて、大学が置かれたのは死霊の場所だという。明治になって新時代の担い手を育てる大学が、死者を意識した場所に立地したことには、大学というものの性格からして、意味があったとする。

 大学には死者から注がれる視線がなくてはならない。死のことを意識しない知性には、深さも重みもない。学問には、死の感覚が必要で不可欠なのである。

 ここから「大学の自由」という考えも生まれてきた。大学は現在の世界をつくっている権威や権力には、もともとしたがう必要などなかった。それは生者の世界のしがらみや権力などから自由になっている、死霊たちの知恵が語られる場所である。大学はそういう資格で、生者のつくっている社会では実現することをいつも阻まれてきた、「自由」を語る空間と考えることができる。

 明治初期の大学は、大きく地所を取れる旧大名敷地に立地したとするのが自然だと、私は考えるが、この人は何が何でも死霊と結びつけたがる。青山学院もそうだという。青山墓地と関係しているのだという。この場所は明治になってから墓地となったのであって、江戸時代には美濃郡山藩青山家の上屋敷であった。それ以前の時代に、弔いの場所であったとの記録があるのだろうか。それに青学と青山墓地では、その関連をいうには距離が離れすぎであろう。ついでにいえば、寺の場所は、江戸時代には防衛上の都合などで、谷すじに配置されたし、明治になってからは、さまざまな都合で「寺町」などにまとめられた事情もあり、それを直ちに地形あるいは歴史上の意味としてタナトスと結びつけるのもどうだろうか。

 中沢のもう一つ好きなキーワードはエロスである。これは低地と結びついてイメージされている。例えば新宿。ここは台地(乾いた土地)と低地(湿った土地)とが、入り交じった土地だった。乾いた地には新宿通り沿いのハイカラな繁華街が形成された。その裏には湿地が迫っていた。コマ劇場あたりの湧き水を水源として北に流れる蟹川沿いの窪地である。大久保(大きい窪地)の名の由来である(「東京の凸凹地図」)。西新宿、淀橋に浄水場をつくることになり、掘り出した土で、この窪地を埋めて造成されたのが、現在の歌舞伎町。そこは本来湿地であり、そのことにふさわしくエロスの街になった。湿地であった名残として、その中心、王城ビルのわきに小さな公園があり、弁天像が祀られている。

 同じく湿地ーエロスの結びつきは、渋谷にも見られ、道玄坂の裏、円山町がラブホテル街になったのは、それが神泉へ向かって深く切れ込んだ谷の湿地であったゆえだとする。それは地形的にそうなる必然性があるというのではなく、湿地の霊気がエロスを呼んでいるのだという。江戸時代も明治以降にも、花街は東京のあちこちに存在した。そのすべてが、このような解釈で説明できるのか。霊気というよりは、陰気な場所という程度の関連はありうるだろうが。

 一部を紹介したが、すべてこの調子なのである。それを鋭い観察と直感、そして表現力と見るか、予断が先にあって強引に押しつけていると見るか。中沢も巧みに断言は避けていて、何かをもったいぶって書いたあと、「なにか深い意味がひそんでいるのかもしれないと、思いたくなってくる」などとあいまいな表現で逃げている。

 私は、霊とか、魂とか、スピリチュアルとかいうものは、進化の果てに出現したヒトの脳機能が産み出したものに過ぎないと考えている。そのように創出したものが無意味だとは思わない。人間の意識はきわめて複雑であって、スピリチュアルなものを創り出し、信じることによって、安らぐとか、納得のいく面があることも理解する。しかし現代人がそれほど「死霊」などに支配された結果、この社会がこのように動いているとは思わない。社会を動かしているものはもっと複雑、複合的であると考える。地形とそれにまつわる霊的なものにより決定されるというような言説は、物語としては面白いが、しょせんそれは文学的創造物。それだけのことにしたい。

 それは別にして、東京の地形がこれだけの想像を喚び起こすことは、興味深い。

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コメント

昨日大阪で大阪アースダイバーへの道と称された講演会に行きましたが、このブログの結論に全く同意します。文学的創造物であればそれはそれで良いですが、あたかも考古学の一理論や新たな科学のような「気分」にさせる書き方はいかがなものかと思います。こういった批判が少なくて、みな意外と納得されているのかと思いましたが、このブログを読み僕だけではないのだと思いコメントしたしだいです。

投稿: yanagimoto | 2010/04/17 16:14

コメントを寄せていただいて、このエントリを読み直しました。われながら、ふーん、こんなことを書いたのだと。

文学的創造物と、真実(もしあるとして)との間に、強い線を引いて峻別することもない、というのが、現在の心境です。面白ければ、それはそれでいいという面と、目くじら立てて真実をにせ物と区別することはないという、曖昧を許す気持ちと。

投稿: アク | 2010/04/17 22:08

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