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2009/02/24

利己心から強欲への暴走を止められるのか

 オバマ大統領は就任演説の切り出しの部分で「私たちが危機のさなかにあるということは、いまやよく分かっている」として、二つの点をあげた。第一は暴力のネットワークとの戦争状態。もう一つが、経済危機である。これについてはこう述べている。

 経済はひどく疲弊している。それは一部の者の強欲(greed)と無責任の結果だが、私たちが全体として、困難な選択を行って新しい時代に備えることができなかった結果である。(朝日新聞訳)

 米国の金融界の暴走の結果、世界全体が経済危機に陥っている。それが一部の者の「強欲と無責任」が引き起こしたものであり、政治経済システムがあらかじめ何らかの措置を講じて、その暴走を抑制できなかった。防止措置をとることは「困難な選択」だった。しかし経済システムが向かおうとしていたのは「新しい時代」であって、「困難な選択」をあえて行っての「備え」が必要だったのだ。短い言葉で、そのように指摘している。

 このような危機が起きたのは、経済活動を理論的に分析し、指針を与える「経済学」そのものに問題があったのではないか、それも基本的なところに問題があるのではないか。私はそんな疑問に囚われて、素人なりに読んだり考えたりしている(すでに2回、このテーマで書いている。その1その2、もごらんいただきたい)。

アダム・スミスの市場原理 経済学の始祖は、アダム・スミスである。経済活動についての彼の基本的な考えはこうだった。
・市場に任せれば、最良の結果が得られる【いわゆる「見えざる手」の教説】。
・市場への参加者は、自分の利害(self-interest)だけを考えればいい【利己心の教説】。
 二つに分けて書いてみたが、これは別々のことでなく、組み合わさって経済原理(市場主義)となっている。アダム・スミスとその後継者は、この原理を物理学におけるニュートンの法則のように思い込み、経済学を社会の「科学」であるとした。

市場対国家 この考えが、脈々と受け継がれ、精緻化されて、今日の経済学があるらしい。市場に対立するものは、国家である。国家の市場への干渉が少ないほどよいとするのが、最近問題とされる「市場原理主義」であり、規制緩和を進めるのが大事だとする。しかし、今回のような世界規模の経済危機、カタストロフを避けるのに規制なしで済まされるのか。その点を端的に指摘したのが、オバマ演説の「私たちが全体として、困難な選択を行って新しい時代に備えることができなかった」との反省の言葉ではないだろうか。このところ行われている各国首脳による会合でも、金融の暴走に対する規制をどのようにするかがキー・イッシューのひとつになっているようだ。

利己心 とはなんだろう。市場に参加する各自は、他人のことや社会全体に対する配慮など一切することなく、自分の利害だけを考えて経済活動をすればいい。そうすれば「見えざる手」によって、全体に対しては最良の結果が得られるというのである。利己心とは、オバマが糾弾した「強欲」と違いがあるだろうか。あるとすれば、正しい利己心と、強欲とを分ける何かの一線があるのだろうか。それを分けるものは経済学のなかにはないようだ。法律に反する強欲は罰せられる(先年、六本木あたりで起きた経済事件が思い出される)。しかし違法ギリギリの強欲は許される(最近の簡保施設の売却問題はこれではないか)。今回のウォール街発の金融バブルは、集団的な強欲そのものが起こしたのではなかったか。富んだものがとことんむさぼり、莫大な数の貧者を路頭に迷わせる結果になったことは、この利己心の結果だったのではないか。

ローズベルトの就任演説 近現代史上、経済人たちは、飽きもせず利己心を発揮し、バブルの破綻や、今回のようなカタストロフを繰り返してきた。前回の大恐慌(1929)の後の経済立て直しを担ったフランクリン・ローズベルトが二回目の大統領就任(1937)にあたって、このように演説したという。

 古い真理をふたたび学ぶことになった。偽りは学びなおされたのだ。他人への思いやりを持たない利己心(セルフ・インタレスト)が悪徳だということをいまや我々は知ることになった。利己心にもとづく経済学が悪であることは明白である。みずからの実際家ぶりを誇る者たちが築き上げた繁栄が崩壊したことから、長期的に見れば経済的なモラルが十分に評価に値するものだという確信が、いまや人々に生じたのである。(『アダム・スミスの失敗』〈ケネス・ラックス著、田中秀臣訳、草思社、1996〉からの引用)

 今回の経済破綻にそのまま当てはまる言葉である。なんと愚かな歴史が繰り返されていることか。経済人と経済学者は歴史に学んでいるのだろうか。

不安定なシステム? アダム・スミスの市場原理のままでは、市場のカタストロフは避けがたいのではないか。手放しの市場原理による経済システムは、不安定性を内蔵するシステムではないのか。不安定性を回避するために何が必要か。そのような問題を論じた経済学説があるのだろうか。私は知らないが、経済理論の中だけで問題は閉じているのだろうか。少なくとも価値中立的立場にとどまるかぎり、問題は閉じないだろうというのが、そもそもからの私の問題意識だ。

利己心と強欲 暴走を引き起こす強欲と利己心との間に、線を引こうとすれば、そこに何らかの価値観、倫理観が必要となる。市場に対しても規制が必要という議論に入ってくるのは、政策的な観点であり、それは価値中立ではない。スミスの時代以降、さまざまな問題状況を経験しながら、人々はアダム・スミスの経済原理の綻びを取り繕ってきた。財政出動、「セイフティ・ネット」、雇用の安定化策、失業者の救済、生活保護、最低賃金制、ワークシェアリング、独占禁止法、もろもろの福祉制度などなどは、いずれもそれである。

 以上、ここ2週間ほど、上記でローズベルトの言葉を引用した本(ケネス・ラックス『アダム・スミスの失敗』)を読みながら、考えたことを書いてみた。エッセンスだけを書いたので、なんとも硬い文章になってしまった。この本の紹介をしようと書きはじめたが、それをせずに、私としての現時点でのまとめのようなものになった。この本はいくつものエピソードや、著者のスミス経済学批判が書かれていて興味深い。機会があったら、内容を紹介したい。

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コメント

こんばんは。大変鋭い問題提起、拝読させていただきました。実は以前経済学の徒であったわたくしですが、今では関係のない仕事についているせいで、すっかりこういう問題を追求することからは遠ざかっていました。アクエリアンさんのブログをきっかけに再びこういう問題を考えることが出来ていることにも感謝いたします。

さて、現在の経済問題の根源をスミスの「自由放任(レッセ・フェール)」の思想にさかのぼって批判するというのは、経済学の中ではあまり見られない視点だと思いますが、スミスとその後継者の違いは何か、それは「利己心」の解釈の問題だと考えます。そこを一緒くたに考えると現代資本主義の「暴走」の原因(?)らしきものは見えてこないでしょう。

スミスが言う利己心は「自己の行為が社会に対してどう影響を与えるか」を考慮した利己心であって、他者の行動が自己の行動に、道徳的にも経済的にも影響を与えるものです。また、スミスの時代は産業革命以前であって、小資本の時代です。産業革命以降の大規模な資本集積はスミスの考慮外だったのではないでしょうか。

後世の経済学者はそれを捨象し「自由放任」がすべての経済主体に適用されればこそ「見えざる手」が発揮され、「全体として最良の結果」がなされると考えてきました。スミスの「自由放任」は小資本が自由に活動すれば全体として最良の結果が得られる、という考え方ですが、後世の「自由放任」はそれを大規模資本にまで同じ基準を適用したにもかかわらず「全体として最良の結果(つまりパレート最適)」がえられればそれでよしとしてしまったのだと思います。これだと大規模資本への資本集中が進んでしまい、その大規模資本の動向によって社会が左右されるという現状を是認してしまうわけです。

「自由放任」という思想を金科玉条のごとく信仰するという意味では「資本は常に搾取する存在」と考える教条的マルクス主義者も同じ穴の狢といえるでしょうが…。

さて、現在、経済学が「利己心」と「強欲」を分ける基準を持っているか、答えは「主流派の中には否」といえるでしょう。主流派とは「市場原理主義」を推し進める「新古典派経済学」の流れです。一方で、佐和の「市場主義の終焉」に出てくる「第三の道」(P141)が少なくとも欧州では主流になりつつありようですが、その中では「利己心」は認められても「強欲」は認めないという流れが根づいているように思います。(また、センの「合理的な愚か者」にあるように、人間の行動規準は利己心だけではなく、「共感」というものがあるという考えもあります)。

市場経済制度を安定させるため(資本の暴走という強欲を抑えるため)には「政府による介入やむなし」というのが「第三の道」の基本的な考え方です。しかし過度な介入は「個人の」経済活動(つまり利己心)を妨げるので「個の自由」までは踏み込まない、というのもそうです。つまり、スミス的な自由を認めつつ、ケインズ的な「経済への積極的な介入」をも認めるのが「第三の道」というわけです。

このような潮流を読みとくためにはスミスへ立ち返るよりも、「新古典派」対「ケインズ派」の対立をたどるとかなり流れが見えやすくなると思います。

「価値中立」について一言。私見ですが、経済学に「価値中立」などありえないと思っています。どういう経済分析をするにしろ、その分析の前提となる制約条件には分析者の価値観が入り込んでいるのは当然で(新古典派などまさにそうです)、「私はこういう価値観の元に分析を試みた」という価値前提を設けないと分析の結論を軽々に出してはいけないのではないか、と思います。価値中立を装った主義主張ほど危ういものはないので…。

投稿: number8 | 2009/02/27 01:12

number8 さん

2,3日東京に出かけていて、いただいたコメントの公開手続きはしたのですが、返信するのが遅れました。

私の多分に幼稚っぽい議論に、その方面の知識のある方が、丁寧なコメントをお寄せくださって、たいへんありがたいです。まだしばらく勉強してみたいと思っていますので、よろしくおつきあいださい。前回教えていただいた佐和隆光「経済学とは何だろうか」を読んでおり、「市場主義の終焉」も読んでみるつもりです。

またお勧めいただいたアマルティア・セン「合理的な愚か者」も入手してきました。専門の論文集のようで、ちょっと難しそうですが、何とかこなしてみようと思います。その助けになるかと思い、同著者による「経済学の再生」(原著:On Ethics & Economics)も同時に買ってきました。私の問題意識はこの方向に答えがあると予感しています。

さて、コメントいただいた中で一つ、二つ。

・スミスが言う利己心は「自己の行為が社会に対してどう影響を与えるか」を考慮した利己心、という点。
スミスの原典を読まずして、何ともいえないのですが、スミスには道徳を説く面と、まったく他人とか社会を考慮せずにひたすら自己利益だけを追求すればいいと極端なまでの利己主義を説いている面とが分裂して存在しているように思えます。後世、経済学を進めた人たちが、利己心の面だけを異常なまでに発展させてしまったということはあったのでしょう。しかし、現在私たちが目にしている「強欲」現象を生みだしたもとには、アダム・スミスの思想があったとしてもいいのではないでしょうか。

・たとえば、池田信夫氏のブログで「リバタリアニズム」とか、「ネオリベラリズム」を話題として取り上げた中で

『欧米でも「自由主義」をさす言葉には複雑な歴史があり、誤解をきらったハイエクはliberalismや libertarianismという言葉を使わなかった。彼の思想は「新」自由主義ではなく、ヒュームやスミス以来の古典的自由主義であり、不況とともに消えるような底の浅い思想ではない。

以上のようなことは欧米の知識人には常識であり、経済学者も(学派を問わず)スミスの経済的自由主義を大前提として議論しているのである。自由主義の伝統がない日本でそれが理解されていないのは仕方ないが、そういう無知をブログで公言して「新自由主義は終わった」などと繰り返すのはいい加減にしてほしいものだ。』
(『新自由主義』をめぐる誤解(09/2/19))

と書いています。

・「利己心」の解釈の問題だ、という点。
たしかに、解釈の問題は、経済学の歴史の中でずっと続けられてきました。しかし、「利己心をベースにした市場主義」を取るかぎり、その利己心に何らかの留保をつけたところで、抜本的な歯止めになっているのか。それが私の疑問点です。たぶんケインズやアマルティア・センを学んで、レッセ・フェールの問題性がどのように乗り越えられているのかを知る必要があるのでしょう。

・経済学説が価値中立的ではないこと。
コメントいただいたとおりだと理解しています。ただ現実に学説にもとづく主張がなされるとき、価値中立で科学的に真であるかのように語られているのを見かけます。それは違うだろう、その主張の前提にどんな価値主張があるのか踏まえているのか、と問い返す必要があるようです。

投稿: アク | 2009/03/02 11:44

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