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2009/03/26

『バオバブの記憶』、本橋成一の新作映画と写真展

 タイトルの映画と、本業の写真家としての同じタイトルの写真展を見た(オフォシャルサイト参照)。

 アフリカの巨木バオバブの樹形を見ると、

 「一本一本、みな違うかたちをしている。その幹に刻まれた模様は人と動物、虫たち、そして大自然と五百年も千年も付き合ってきた記憶なのだ。
 ついこの間まで人間も地球上の生きものたちと同じ時間の流れの中で生きてきた。いつからだろう。人間だけが走り出してしまったのは・・・。バオバブの記憶に聞いてみたくなった」。

 本橋成一は、映画の制作意図をそのように書いている(映画解説パンフレット)。また同じパンフレットで、バオバブの樹そのものだけでなく、「暮らしの中のバオバブを撮りたかった」と話している。そうして見つけたのが、セネガル共和国の首都ダカールから東へ100キロほどのトゥーバ・トゥール村だった。

 そこで村人たちは、バオバブとともに生きている。アフリカのサバンナ地帯の草原に、バオバブが、まばらに、しかし一本一本は巨大な姿で生えている。樹齢は何千年とも数百年とも不詳であるが、とにかく草原のゾウのごとく巨大な樹木である。そのバオバブに寄り添って村人たちは暮らしを営んでいる。葉を採り、乾燥して粉(ラロ)にして、主食のミールに混ぜて食する。ミール(トウジンビエ)とはイネ科の穀物で、蒸してクスクスを作って食べる。バオバブの実は、堅い果皮を割って中身を砕き、水でジュース分を抽出して飲む。樹皮を剥ぎ、縄をなう。屋根材にも使う。落ちた小枝は炊事のたきぎにするが、大きな破片は「精霊が宿っている」ので、燃料にしてはいけない。その掟を破ると、その家に火事が起きると信じられている。子どもたちは木に登って遊ぶ、あるいは実を取るために高い枝に登る。一方、バオバブは霊の宿る神木である。占い師は樹の前で神託を乞い、祈祷師は枝や葉を用いて治療をする。

 このようにバオバブを中心に営まれている村人たちの生活を、何の演出もなく、断片的に撮影したシーンをつなぎ合わせて、1時間40分ほどの映画にしている。一人の男の子とその家族を中心にしているが、何かのストーリーがあるわけでもない.しかしその淡々とした映像は、私たちに多くのことを語りかけてくる。

 主人公とした男の子は、12歳。この国では、10歳を超えた子どもは立派な働き手である。牛追いをしたり、農作業(主食のミールや農産物として売れる落花生の種まきや収穫など)を手伝う。毎日とても忙しい。村には学校がある。教科をフランス語で教える学校である。少年は学校に行きたいと願っていて、それを父親に言い出す機をうかがっている。仕事を言いおいて、市場の仕事に出かけてしまう父親に、今日こそと思いながら、どうしても言い出せない。そのフランス学校の女先生は隣に住んでいて、少年は先生にあこがれているようである。この部分がこの映画の中で唯一物語らしいシーンだが、それも淡々と描かれていて、別に結論を得ようとしない。私たちは、かわいそうに、学校ぐらい行かせればいいのにと思ってしまうが、そんなことは起きずに、このままの生活が続いていくのだろう。

 映画の解説パンフレットに数多くの人の言葉が寄せられているが、そのなかで作家・久田恵は、「モードゥ(少年の名)は学校に行けなくても学校に行く以上のことを学んで生きているように見え、それでいいのさ、と言ってあげたくなりました」と書いている。おそらく近代化の波はここにも押し寄せていて、フランス学校で学び、町に出て、職を得て、都会に住むという方向にいく子もいることだろう。数十年後、百年後に、この村の生活がどうなっていることだろう。このままであってほしいと見る人に思わせる。

 この映画の最初と最後の部分にチラリと、開発の波がこの地にも押し寄せていることを示す映像が差し挟まれている。このように遅れた生活は近代化しなければならないと、国の指導者も、この地に資本を投じる企業も考えているのだろう。セネガルには先進国が目をつけるような資源はないそうだ。それでも近代化の波は押し寄せている。先進国が援助の名のもとにお節介をやいているのだろうか。

 バオバブの木の実物を見たことがない。その樹形は大きく、おおらかで、天衣無縫に枝を張り出しているようで、じつに魅力的だ。写真展で見たあるバオバブはまるで城壁のように幅広くそびえ立っている。また地面に倒れた元木から何本ものバオバブが立ち上がっている樹もある。見飽きないのはその木肌だ。本橋が書くように、その樹皮を人が削り取り、獣が囓り、虫たちが巣くったなどによる、さまざまな傷跡と、それを樹の生命力が修復した、複雑な過程を木肌が記憶として残しているのだ。

 本橋成一の映画はいつものことながら、何かを押しつけない。場所と、自然と、人々の生活を、淡々と写し撮って見せてくれる。それをどう感じるかは、見る人に委ねられる。そのような心地よい緩さは、本橋成一の人柄から来るのだろう。

 この映画を観ると、人が文明化とともに何を失ってきたか、それを思わせられる。ずっと以前、どの地域であれ、人々は、このトゥーバ・トゥール村の人々と同じように、自然と濃密に触れあい、森や草原の草木や、そこに生息する生きものたちと同じ資格で生きていた。自然の与えるもので命をつなぎ、種を蒔き、雨を乞い、命を長らえるに足るほどの収穫を得、そのことを祝って踊り、時には交易し、・・などして暮らしてきた。文明社会に生きる私たちが、そのような自然な姿からいかに隔絶したところに来てしまったかを、この映画に登場する人々の暮らしぶりが、対照的に明らかにしてくれる。幸せなのは、彼らと我々とどちらかと、考えてしまうほどに。

 映画『バオバブの記憶』は、東中野「ボレボレ東中野」と渋谷「シアターイメージフォーラム」で上映中である。大阪、名古屋、神戸、京都などでも上映が予定されている。写真展は、品川区大崎「ムツムラ・アート・プラザ」にて3月31日まで。同じタイトルの写真集が平凡社から出版されている。

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