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2010/02/06

75歳になってしまった

 過日2月1日に誕生日を迎え、75歳となった。「なった」ではなく、「なってしまった」に、いささかの感慨を込めているつもりだ。晴れて後期高齢者の仲間入りという意味もある。近頃まとまったものをこのブログに書くことができないでいたが、少し時間がとれたので、75歳を迎えての近況と感想を書いてみる気になった。

 なかなか書く機会がないのは、ジムとtwitterのせいだ。昨年6月にはじめたスポーツ・ジム通いが、思いのほか時間を食う。体力も気力も費やす。このため知的作業への集中力を欠くようになってしまった。本をじっくり長時間読み続けることができない。何かの関心事についてじっくり考え、書きものにまとめることもできずにいる。知的にはぼやーっと拡散した日々を過ごしている。そんな生活のなかで、ブログに代わって、twitter(*)が自分にとっての手頃な表現手段になっている。短時間に瞬発力で短く書いて、発信できる。自分が書くだけでなく、他人の書いたものを読む。数十人をフォローしており、なかには多弁な方もおられるので、じっくり読めば、けっこう時間を取られる。ざっと拾い読みするコツも覚えなければ付き合いきれない。切れ切れの時間に読んだり書いたりするすべはそれなりにある。今いちばん活きのいい刺激をもらえる場だと感じている。朝、5時から6時ごろに目覚めると、ベッドに入ったまま、iPhone(**)をスイッチオンしてtwitterを読み書きする。そのほか、日中もおりがあれば、パソコンかiPhoneをtwitterにつなぐ。誰かがおしゃべりをして、途切れることがない。1日に数百の断片を斜め読みする。多いときは10を超える書き込み(tweet)をする。

*twitterとは、アメリカのTwitter社のホームページの自分のページ(home)に短い文章(140文字)を書き込むと(tweet、ツイートと呼ばれる)、自分のフォロワー(自分の書いたものを読んでくれる人)のhomeに表示される。また自分が読みたい人をフォローすると、その人たちが書いたものが時間順に、自分のhomeに表示される(TL、タイムラインという)。これが終日絶え間なく流れていく。これはというツイートを自分のフォロワーに転送する(RT:retweet)こともできる。これまでのブログなどよりも、即時性、報道性が高い。例えば地震などがどこに起きたかを地震速報より早く知ることもでき、ニュースなども早い。最近は記者会見や会議の場から速報してくれるよツイートも読める。私のtwitterはここに。また私の書いたtwitterのアーカイブ(ログ)はここにある。

**iPhone。アメリカのアップル社の多機能携帯電話。携帯というより小型インターネット端末、あるいはパソコンといったほうがいいもの。多機能で、出先ではパソコンを持ち歩く必要がないほど。日本ではソフトバンクの携帯として、外国でも無線LANによりインターネットに接続できる。twitterができるし、ブログも読んだり書いたりできる。新聞も読めるし、音楽も聴ける。その他もろもろ。これ1台を持つと自宅にいるのと同じパソコン生活ができる。

 書き始めから深入りしてしまった。本題の75歳を迎えての感想に入ろう。まず、75歳。こんな年になっているという気が全然しない。自覚としては60そこそこという気持ちでいる。70歳になったときに、このブログに感想を書いていて(「70歳になった」05/02/01)、70歳になった実感がないとぼやいている。72歳になったときの感想(ここ)も同様である。人から若いといわれる。お世辞もあろうが、そう見えるらしい。老年者が若く見られるということは、そう褒めたことではない面もある。老人らしい熟成した風貌を未だ獲得していないということだ。むしろ嘆くべきことかもしれない。自分が若い、そんな歳になっていないと感じることについて、多少思い当たることがある。一つには若い気持ちでいるということ。もろもろのことに好奇心を持ち、知識や技能が未熟で、その分伸びる余地があるという気で、取り組み続けることだ。もう一ついえば、ポジティブ思考かな。年を取った、今さら何かをしても仕方がないと諦めない。自分の体力、思考力を見限らない。まだまだできると前向きでいる。そんな気の持ちようが、自分を実年齢ほど年とっていると感じさせないのだろう。

 そうはいっても、老いに向き合わざるをえない年齢になっている。身体の衰えは否応なしに自覚する。特に記憶力の減退と、しゃべる能力の劣化を自覚する。最近同年輩の友人知人の訃報に接している。私もいつ何時同様な命運に出会うやもしれぬ。本を買うときに、これを生きているうちに読むだろうかとためらうようになった。カメラとかパソコンなどのものを買うときも、あとどれだけ使うのかを考えてしまう。新しいことを企てる場合も同じである。余命を数えるようになったのである。上に書いたばかりのポジティブ思考で行けば、たとえ明日死ぬとしても、新しい何かにチャレンジしていくべきだが、なかなかそうはいかなくなった。退職後、第2の人生に「これからだ」と向かったときとはいささか違う心境になっている。

 退職時にどんな老後生活を送ろうとしたか、思い出してみたい(これについてはホームページに「仕事を辞めるまで」「仕事を辞めてから」との項目を作って、あれこれ書いた記憶がある)。退職のずっと前から、仕事を辞めたら何をするかを考えていた。それは知的世界に遊ぶということだった。知的好奇心は多方面に向いていた。街歩き、旅行(海外と国内)、写真、パソコンとインターネット、そして何より「世界理解」(世の中がどうなっているか、何が大事か、などの自分なりのとらえ方)。それも自然科学からの世界理解から、人文的な世界理解へ。これまで関心を持ちながら知ることの少なかった分野の知識を少しでもかじってみよう、自分としての考え方を深めていこう。当時は、まるで広い大海に乗り出すような気でいた。ただ目的地もなく、計画もなく、日々の航行だけを楽しめばいいという、気楽なクルージングのつもりだった。難所にぶつかれば、無理して乗り切ることはない。避ければいい。進路変更だ。自分の興味だけで、その時その時を、自在に楽しんでいく。それが十年も続けばいいと思っていた。

 そして今、9年近くの年月を経て、振り返ってみると、まず思うのは、時間の経過の早いことだ。気ままで気楽な生活をしていると、時間が経つのはじつに早い。すぐ上に書いたように、計画も目標も漠然としたものすら持たなかった。何か意味のあることを成し遂げようという気も、その目途もなかった。それでいいとした。しかし、過ぎ去った歳月を今思い返せば、ほとんど何も残していない。あわあわと時間だけが過ぎていった。このまま同じようにあと5年やそこらがあっという間に過ぎ、私の生涯も終わりを迎えるのだろうか、そのことにはいささか愕然とする。こう思うのは、やはり目標達成型の仕事人間的人生観を脱していないせいなのだろうか。もともと考えていた老後生活の方針からすれば、何も達成できていないということは一向にかまわないはずだ。それなのに、充実した厚みのある時をじっくりと楽しむことなく、時間だけがそそくさと過ぎていったように感じて、それが嘆かわしいのである。これぞ老年に感じるペーソスなのだろうか。

 生きていることに充実感をもつこと、それが幸せだとずっと思ってきた。では老年になっての充実感はどこにあったのか。何もなしに時が過ぎ去ったと上に書いたばかりだが、そう思うのは、長い時間と労力を掛けて何かを達成するという現役時代の充実感を尺度にしているからなのだ。現役でなくなって、そんな考えから解放され、自由に気の赴くままにそのときどきを楽しむ、目的地のない航海をしているのだから、充実感の測り方が違うはずなのだ。難路を辿り目的につくことではなく、好天のもと楽なクルージングをして、その日その日を楽しむ。そのような一日一日が終わり、今日もいい日だったとすればそれでいいのだ。あわあわと時間が過ぎていった。それは後悔すべきことではなく、それが幸せなんだ。じぶんで納得。そう思い直せば、多少は手応えを感じたことはあるにはあったではないか。何か小さな事柄を成し遂げたこと。いい本を読み上げた、いい音楽を聴いた、いい旅ができた、いい写真を撮れた、まとまった書きものを仕上げた、知的好奇心を満足させる程度に理解が進んだ、・・・などなどだ。それらの足跡をホームページブログに書き残している。そんなことで時間が過ぎていったのは、それで良かったのだ。

 最近では、身体のエクササイズが加わった。たとえばクロールを覚えようとしている。練習を重ねればゆっくりだが着実に進むのが目に見える。「老犬に新しい芸を仕込むことはできない」といわれるが、決してそんなことはない。最近の脳科学は脳細胞レベルで、それがあり得ることを実証している(芸、たとえばクロール泳法、それは身体が覚えることだが、じつは全身の筋肉をバランス良くコントロールできるように脳が覚え込むことだ)。エクササイズをしたあとは、身体に充実感がみなぎる。知的作業よりずっと確かな手応えを感じる。また身体の充実感が知的生活を活性化させることもある。今年の年賀新聞「てとら」に「メンタルからフィジカルへ」と書いたのは、そのことである。

 自己満足に過ぎないが、自己満足以上のものを求めない。それが私の老後の生活信条だ。いやそんな肩を張った言い方からもっと自由になろう。そう、自在な生き方が、もともとの考えであったではないか(『自在』→束縛も支障もなく、心のままであること。←広辞苑)。無為に過ごしたと思う一方、それでいいのだと思い返し、ようやく老年の過ごし方が分かってきたなと思っている自分である。

 新しい友人をえたことは、この9年間の賜物と言えよう。退職後、さまざまな場で、新しい友人を得た。旅先で、写真の趣味で、インターネット上で、スポーツジムで、町内で、などさまざまである。古くからの友人、仕事上の知り合いとは、日ごとに縁が薄くなる一方で、新しい友とは、時には長年の友のように付き合いが深まる。現在の友人関係を測るとすれば、退職後に知り合った友の方が質、数ともに優るかもしれない。ネット上の友人などは、未だまみえたことがないが、何回かのコメントのやりとりなどで、親しみを感じる。

 毎年、2,3回の外国旅行をした。旅行社のパック旅行に参加することが多かったが、これは不慣れな国へ行く場合だった。個人旅行もした。レンタカーをしてアイルランドを巡り歩いたことなどが思い出多い。パック旅行でも、旅行の最後にグループを離れ、自分たちだけの旅行分を付け加えた。旅行は未知との出会いである。さまざまな国への旅が積み重なり、実感を持って世界を見、国際問題を考えることができるようになった。どんなに遅れた国でも、先進国でも、その地の人と話してみると、人間って同じだなと、そのことが驚きだった。また、伝統と現状を異にする文化が多様な形で存在することを知ったことは大きかった。本当は若い時期にこのような経験ができたら、ものの考え方がよほど違っていただろうと思えた。

 この歳まで生きて、何より嬉しいのは、日本の政治に変化の時が訪れ、新政権の誕生を見たこと。そして嘆かわしいのは、その新政権のもたつきぶり。期待と落胆のギャップの大きいことよ。おそらく、このもたつきぶりが、さらなる次の局面へと導くのだろうが、それまで見届けることができるか。何を期待するかといえば、やはり次の時代の国の姿を画期的に造り変えることだ。社会のあり方ゆえの貧困や不幸をできるだけ少なくする施策、そしてみながそこそこ豊かに暮らせる経済を維持する施策。

 Last but not least。自分のことだけでなく、夫婦のことも話題にしなければ。老いて暮らすとは、連れ合いと一緒に過ごすということ。ほとんどの時間を一緒に過ごす。いたわり合いと、緊張関係の交差する毎日である。私のように自分本位に生きている夫を持つと、妻はその尻ぬぐいを絶えずしている。家事労働の大部分は妻におっかぶせている。少しは分担するが。パーフェクトなハウスキーピングを心がける妻と、やりたいことを優先して、あとは手抜きもやむを得ない、それでよしとする夫と、家事についての考え方が大きく違う。譲り合うこともあるが、妻は大きな不満を抱えている。そのことは分かっているが、私はマメな亭主になりたくない。その緊張関係を時に緩和しながら、どうにかこうにかやってきた。これから老化が進むと、互いに支え合う必要はますます増えていくだろう。この1,2年、妻はむち打ち症(高速バス乗車時の事故)になり、また自宅内で転倒して痛めた肩の損傷から未だ回復しきれずにいる。ジムでのエクササイズがリハビリに良いらしく、一緒に通い、それがここ半年、共有する生活の軸となって定着した。多少救われている面がある。しかし互いに個を主張する人間ふたり。エネルギーのある間は、この緊張は続くのだろう。夫婦というのは、そういうものだと私は思う。

 書き始めたら、なにやらもたもたと書き連ねてしまったが、以上、75歳になっての中間報告。

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コメント

無事に75歳の誕生日をお迎えになられたこと、お喜び申し上げます。退職後の年月を振り返っての久し振りにお書きになったものを興味を持って拝読しました。人生の先輩がそれぞれの段階でどのようにお感じになっているかはとても関心があります。

特に「人生を目標達成と捉える必要がない」という表現に新しい視点をいただいたように思いました。日々を楽しむこと、自分が満足できればそれで良いという考え方を、若いときには軽んずるところがあります。少なくとも私はそうでした。しかしある時点から、それは自己を知り、足るを知る知者の言葉であるというように、考えが変わってきたような気がします。

それと同時に、人間もこの地上にある生きとし生ける生命体の一つに過ぎないと感じるようにもなってきました。顕微鏡の下で動いているバクテリアや、野にすだく虫と大差ないのです。自分の人生とは何なのか、それは各自の頭の中にあるだけのことで、生きていることが何よりと思うようになりました。有体に言えば死んだらお仕舞いなのです。前は思いもつかないことでした。

ツイッターにかなり移行なさっているようですが、こちらでお考えをときどき伺えるのを楽しみにしています(長くなりますので、ツイッターについては別にコメントをつけます)。

投稿: 柳絮 | 2010/02/07 22:13

アクさん

ツイッターはブログなどよりも、即時性、報道性が高いとお書きになっていますね。また関心や文化を共有できる社会あるいは仲間うちでは十分効果を発揮するかもしれません。

使い方は人それぞれ、文化圏によっても違いがあるような気がしますが、短文を書いて最後に俳句を書き付けるというようなことをするには確かに向いていると思いました。短ければ情緒や雰囲気を表白するには良いでしょう。

しかし色々な方のツイッターを拝見すると、うたかたのようなものがかなりあります。まあ、私たちの頭の中には泡のようにちょっとした考えや感想が浮かび、それを日々つぶやいているのですから、それが簡単に定着できるようになったことに意味があるとは言えるでしょうが。

私は、人が自分の思考をまとめるには、ある程度の長さが必要と考えています。そもそも一つの文章(センテンス)にならない断片では賛成も反対もできません。たとえセンテンスになったとしても140字ではまとまった考えを表明することが難しいような気がします。

今日の世の中は(本当はいつの時代でもそうでしょうが)多様な人々が入り混じり、どこにあっても誰に対しても、自己の考えを論理整合性を持って説明していく必要があるように感じられます。ツイッターの力を借りて世界中の断片的なつぶやきをつなげたとしても、それはきちんとした議論になりにくいという印象を抱いています。

民意の根本にあるのはつぶやきに過ぎないかもしれません。そこで、つぶやきのような民意を纏め上げ一つの力とするのにツイッターが役立つこともあるでしょう。例えばイランで権力に対抗するほどに民意を統合することができるようになった背後には新しい技術が与っています。

しかし逆もあります。民意の本質がつぶやきのようなものであるとすれば、そこから危険性も出てきます。お題目、スローガン、クリシェ、色々な表現がありますが、そのようなものを増幅する危うさです。

その昔、八紘一宇や悠久の大義に生きるという言葉がありましたね。厳かで何か雰囲気はわかるような気がしますが、突き詰めて考えると何かわからなくなります。私の父は終戦時に悠久の大義に生きるという言葉で危うく自決するところでした。22歳のときです。

ハンナ・アーレントは、アイヒマンの親衛隊入隊の動機が決まり文句であったことを指摘していました。おそらく多くのドイツの若者の志望動機も同じようなものであったでしょう。決まり文句を掘り下げて考えて、自己のものにしなければ、誰かに踊らされてしまうことになります。

とはいえツイッターは数ある表現手段の一つに過ぎないことも事実です。かつて万年筆からワープロに移行する時期に、ワープロではきちんとした思考ができないというような議論がありました。今はそのような話は余り聞かれません。人は新しい技術を使いこなし、その上で自己を表現するだけの可能性を持っているのでしょう。

従ってツイッターが普及した故に、人の思考が細切れになるというのは、人間の秘められた力を軽視しているのかもしれませんね。必要なときにはツイッター以外で十分な意見を表明すればよいだけのことです。要は道具を如何に使いこなすかにかかっているのでしょう。いい包丁もきちんと研いでおいしい料理を作るのに使われなければかわいそうです。

折を見てご意見を頂戴できれば幸いです。

投稿: 柳絮 | 2010/02/08 09:23

柳絮さん

さっそく読んでいただいてのコメント、ありがとうございます。

柳絮さんのブログで拝見する、お仕事のかたわら、古楽器のアンサンブルを趣味とし、交友を楽しみ、悠然とこの世を観察しておられる、そのご心境にはとうてい及びません。たぶん興味が発散気味なのでしょう。その分、自らを忙しくし、中途半端にしているようです。

生きとし生けるものについて書いておられます。私も未だ考えを深めてみたことはないのですが、人間とてしょせん生き物の一つと考えることから出発する「世界理解」を根っこに持っていたいと思っています。

投稿: アク | 2010/02/08 09:40

柳絮さん

ツイッターについてのご意見、いかにも、と思いながら拝見しました。

・140文字で何が表出できるのか。

>人が自分の思考をまとめるには、ある程度の長さが必要と考えています。そもそも一つの文章(センテンス)にならない断片では賛成も反対もできません。たとえセンテンスになったとしても140字ではまとまった考えを表明することが難しいような気がします。

私も一旦書き出せば長く書く方で、自分の考えを枝葉末節に至らないまでも、肝要な部分を述べるだけでも、1000文字では足りないほどと感じます。結論だけでなく、問題意識からはじめて結論に至るあれこれの問題点に触れ、結論に含みを持たせようとすれば、あれについても、これについても一言ずつ触れておきたいということになります。

他方、何か言いたいことの要点を140文字という制限のなかで言えないかというと、必ずしもそうでもありません。小泉元首相以降流行になったワンフレーズ・ポリティックスのように、短くポツンと訴求性のあるワンフレーズを表出するのが若い世代に流行っているようですが、それにとどまらず、かなりのことが言えるように感じています。英語の140文字に比べると、日本語140文字は、倍以上のことが言えそうです。英語その他のアルファベットを使う人たちに比べ、日本語あるいは中国語を使う人にとって、twitterで何が言えるかについての意見はかなり異なるでしょう。

人によっては、まず原稿を書いておいて、それを文字数制限に応じて、細分化して、いくつかのtwtsで書き送る人もいます。短縮語、略語など、それなりのtwitterリテラシーのようなものが生まれてきているようです。

もちろんブログのようにはいきません。ブログをそのままの形で続けながら、twitterに参入しているブロッガーも多いようです。両方をバランス良くやれればいいのですが、私の場合そもそもブログに定期的に書くことが、生活面と思考の衰えと両面で難しくなり、易きに流れて今はtwitterがメインということになっています。

・twitterは「つぶやき」か。

誰がtwitterを「つぶやき」と翻訳したのか知りませんが、つぶやきには、独りごとという、コミュニケーションを求めないニュアンスがあります。たしかに勝手につぶやきっぱなしの人もいますが、私が読んでいる限り、twitterでは、むしろ、もっとも旬な、研ぎ澄まされた言葉が発出されているように思えます。

twitterは、自分が読みたい人を選ぶことができ、また自分の書いたものを選んで常時読んでくれる人ができてきます。そこは閉じた世界で、外で何が起きているかを知ることはできませんが、ちょうどパブか居酒屋で、議論の輪ができるのに似て、自分で議論に加わることもできるし、興味がなければさっさと離れることも、無視することもできます。これまでの掲示板のようにホットな議論で燃え上がることもありません。個人主義的な、クールな世界です。そこをその程度のものと心得れば、それなりに楽しむことができます。

・twitterは「うたかた」のようなもの

確かにおっしゃるように、泡のように浮かんでは消えて行くものでしょう。時系列で流れていき、すべてをじっくり読むことができません。半日前のものすら、読み返すのは容易ではありません。せめて自分の発言くらい記録にとどめておきたいと、ブログに残していますが、他人のものを辿るのは容易ではありません。最近私もはじめたtwilogを使っている人の分は互いに読みに行くことはできます。しかし互いが別々に関与した対話まではとても辿れません。自分の選んだ狭い世界のなかで、書いて、読んで、何か反応する。それがどんどん流れていく。そういう一過性の媒体なのでしょう。考えてみれば現代は激しく消費が進行し、新聞も雑誌も、もちろんテレビその他も、文学や評論ですら、一過性になっている。この時代に相応のツールなのでしょう。

私は流行りものには、少し遅れてついていくという方で、それがいいか悪いかは問題ですが、まあその程度に腰の軽いほうなのでしょう。twitter以前にiPhoneにとりつき、その流れでtwitterにも、という始末です。どれだけ自覚的に使いこなしているか。柳絮さんのご意見には大いに自省を促されました。

投稿: アク | 2010/02/08 21:05

アクさん

ツイッターについてのご返事を有難う御座いました。少し続けさせてください。

(1)ツイッターの特徴。ツイッターは高い「即時性、報道性」があるばかりではなく、「緩やか繋がり」も利点でしょう。反応があったとき返事をしなくとも良い。自分ではなく反応したい人が返事をしてくれることもある。そしてあとで関連するものだけを「一括」できるのも優れた点です。

(2)ツイッターの使い方。初めは発信しても反応はないので、色々な人をフォローする、こちらからの発信をしながら、フォローする人へも発信を試みる、そのうちにフォロワーが出てくる、というのが一般的でしょうか。ある程度の数になると相互のやり取りが増え、一気に面白くなるのでしょう(不謹慎ながらねずみ講の胴元の心理に似ているような気がします)。

(3)隠れたメリット。面白さとは何か。それは他の人との交流でしょう。見知らぬ人とも話ができる。自分の発言に反応してくれる人がいる、それは何よりの喜びかもしれません。日常的なメッセージを送り、誰かに同感したり、激励の言葉を送る、それを生身でするのではなく、この道具を介してするわけです。広く交流を楽しむ手段としては優れた仕組みでしょう。

(3)ツイッターでは得られないもの。これはツイッターをどのような目的に使うかにかかってきますが、日常的なメッセージを送る以上の実質的な議論ができるかと言う点については疑問です。国会議員の中で、政治討論や意見交換、政策提言に活用するという動きがあるようですが、ツイッターの短い制約のある中ではうまくいかない可能性があります。これは前回申し上げた通りです。

(4)隠された問題。そのうちに困ったことが出てきます。あるとき蓮舫議員が今日はまだツイッターをしなかったと書いていることに興味を持ちました。常に何かに追いかけられる気分になるのです。

何故なのでしょうか。同じようなことはいつの時代にもありました。返事をしなければならない手紙が何通も溜まれば、鬱陶しくなります。メールも同じ。幾つも溜まるとどこから手をつけるかわからなくなります。強迫観念の始まりです。

不義理をしている、返事をしなければという感覚はいつの時代も変わらぬものです。ただそれがツイッターで助長される。返事をしてもしなくてもいいとの暗黙の約束があってさえ、そのような気持ちが生ずるのです。

面白いという状態に留まれば良いのですが、絶えず追いかけられるような気持ちになっては元も子もありません。どうぞ程々に、ということになります。

(5)あとでの一括整理。これはツイッターの優れた点でしょう。アクさんが「もっとも旬な、研ぎ澄まされた言葉」がツイッターから流れてくると仰るのはその通りです。それを一気にまとめて、自分の思考を整理することができれば、知的生産性は向上するでしょう。最新であるかは(私は)問題にしませんが、「研ぎ澄まされた言葉」を掬い上げて自分の考えの栄養にすることは大切です。

ただそれも日々接する人のちょっとした言動からも得られます。考える種は随所にあり、その蓄えも各自十分にあるのではないでしょうか。それぞれが、いかに鋭敏な観察力や思考力、あるいは感性を備えているかにかかってきます。

(6)手段と目的。私はツイッターそのものよりは、それを使って何をするかの方に興味があります。ツイッターに対する関心は、自分のしたいことを実現するのに、どのような手段をとるかの検討から発しているのです。ツイッターの機能への関心も、よく考えてみるとツイッターの隠れたメリットなり隠れた問題への関心に由来するもので、それはこれを使う人間への関心といったら良いかもしません。

以上のお話は、ツイッターへの批判でもそれを使う人々への批判でもなく、一つの考え方の提示です。そこから興味ある対話なり他の方も加わった議論の輪が広がることができれば何よりです。ツイッターのアカウントもありますが、そこに費やす時間が惜しく、むしろこのような場でゆっくりとお話をしたいと感じています。

投稿: 柳絮 | 2010/02/11 10:57

アクさん
 ブログの更新を楽しみにしていました。先ずは、お誕生日おめでとうございます。分際を知り、今を生きることをいとおしく思い楽しむ。私が体感するにはまだ時間がかかりそうですが、後塵を拝するものとしては、ありがたい言葉です。このところ、発信はtwitterにご執心のご様子。先ほど、アクさん宛てにようやくtweetしたところです。届いているでしょうか。全く不慣れです。勉強が必要なようです。
栗林公園の梅もそろそろ咲きそうです。
ご自愛ください。


投稿: sollers | 2010/02/13 18:15

柳絮さん

お返事ありがとうございました。

ツイッターについてのさまざまな問題を指摘していただいて、考えさせられます。柳絮さんがツイッターに、少し距離を置いて見ておられる。私は個人的な事情から辛うじてネット上で発言し繋がりを確保する場として、さらには一般的にいえばネット上の新しいフロンティアとして、一定の評価をしているという違いでしょうか。

いただいたご意見について、考え、お返事を書いてみたのですが、何か気乗りしないまま、放っておいてしまいました。読み直して、今さらそれをコメント欄に載せる気もなくなってしまいました。

柳絮さんが、書かれたことはごもっともで、twitterにあれこれの問題があるのは事実です。にもかかわらず、私はそれを楽しんで、どっぷりとまではいきませんが、かなり入れ込んでいる状態です。twitterが何であり、何が問題か、論じるより実践している状態なのです。

昨日今日などは、ネット中継での池田信夫・対・上杉隆論争(これもtwitterでのやりとりから始まったものです)についての感想のやりとりがありました。ついで、このようなメディアについて「風の旅人」編集者・佐伯さん(@kazesaeki)と論じ合っています。これが実質的かどうかはともかくとして、私は十分に手応えを感じているのです。

そんなことをご報告して、とりあえずのご返事にします。

投稿: アク | 2010/02/16 20:51

> 老いて暮らすとは、連れ合いと一緒に過ごすということ。ほとんどの時間を
> 一緒に過ごす。いたわり合いと、緊張関係の交差する毎日である。

この一文が大好きです.私は夫婦のみならず集団や組織が持つ性質だと捉えて
います.(そんなに人生経験もないのにこんなこと言うのもあれですが…)

またアクさんの文章を通して,時間という要素がこれほど生き方に影響を及ぼ
していることをあらためて知りました.これは同世代とのコミュニケーション
だけでは得られなかったものだと思います.日常生活の中で年配の方や子供た
ちと話す機会がほぼないものですから,私にとってはかなり貴重で相当うれし
いです.おそらくそれ以外の20代の若者にとっても.もっと言えば若者に対す
る意見なども読んでみたい気がします.

これからも勝手ながら,知的誠実さに富んだ意見と率直な感情(怒りや喜び)を
楽しみにしています.メディア(twitterやblogなど)は文章の性質に合わせて
使い分けてくれたら,個人的にはなんでもいいです.

投稿: katsuya | 2010/02/19 13:54

こんんちは。松本先生のDr.松本の医学界落ち穂拾いを通じてアクさんを知りました。
人生の先輩としてアクさんのように生きていきたいと思っています。
アクさんがTwittererになっている事を知りませんでした。私自身、Twitterの利便性が分かっていないんですが、理解しようと努めています。今日からアクさんのつぶやくもフォローさせていただきます。
これからもよろしくお願いいたします。

投稿: 屋台ブルー | 2010/02/26 20:07

75才を迎えられたご感想、興味深く読ませていただきました。私もあと2年でその年になります。
スポーツの楽しみも実感しておられ、75才とは思えません。
私は、50年近く続けていた登山を昨年止めました。
最近、心身ともに衰えを感じていますが、アクさんのような方がおられるのを知り、自分も頑張ってみようという気になりました。

投稿: 寺田拡 | 2010/11/22 20:44

寺田拡さま

二度もコメントをいただいたのに返事を書くのが遅れていました。旅をしたり、何かと忙しくしていたせいと、お許しください。

ホームページの「アイルランドの旅日記」を読んで、同じようにレンタカーで好きなコースをまわるという旅をされたとか。そのような旅ができるのは、あの国ならではですね。寺田さんのコメントを読んで、改めて旅日記を読み直し、よくぞあのような旅行をしたものだと思い起こしています。スライゴーから西海岸を辿る旅が特に思い出深いです。

名文だと褒めていただいて、筆者の妻はうれしがっています。この人は記録魔で旅の詳細を書き留め、帰ってから旅日記を書くのを楽しんでいます。このところ編者の私の時間・気力がないため(編集・更新作業はけっこう労力が必要)、ホームページにアップできないのを残念がっています。

50年も登山を続けられたとか。おやめになったのは残念ですね。安全を考えられてのことでしょう。まだまだ老後は長いです。励まし合って有為に過ごしたいですね。

またご訪問ください。

投稿: アク | 2010/12/01 10:28

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