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2010/11/20

金沢に住んだ頃(前篇)

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 金沢のホテルの部屋に入り、すぐに窓から外をのぞき見た。眼下にといっていいほどの方角に、かつて住んだ場所が見えた。地図であらかじめ見当をつけておいたから、そこだと即座に分かった。香林坊の交差点から兼六園へ向かう広坂通りの南沿い、最初のブロックの角地だ。今は白い大きなビルになっている。地図によると香林坊第一ビル。かつては広い敷地に十分な前庭を置いて平屋の教会が建っていた。今は敷地いっぱいの箱形9階建てのビルになっている。すっかり変わってしまったな。無理もない。70年も前のことだ。

 金沢に旅行したのは、11月の第2週。3泊4日。旅の目的は、昔住んだ懐かしい街を訪ねることにあった。その頃住んだ場所の至近距離にホテルをとった。金沢エクセルホテル東急。香林坊の表通りに面した高層のホテルだ。チェックインして指定された14階の部屋は、たまたま広坂通りを望める好位置だった。

 昭和15年4月から昭和17年2月まで、私が5才から7才までの、二年たらずの時期をそこで過ごした。短い期間であったが、小学校への入学、父の出征、太平洋戦争開戦など、思い出深い出来事を経験した場所であった。時を経て、物理の研究者をやっていた頃、金沢大学で開催された物理学会の折、この街を訪れる機会はあったものの、用事のみを済ませて帰る出張だった。今回ようやく思い出の地をじっくり再訪することができた。結婚50年余をともに過ごした妻に、私が幼時を過ごした地をはじめて見せる機会ともなった(私は彼女が幼時から小5年までを過ごしたソウルを訪れたことがない)。そんなことで、70年も昔のことだが、いろいろと思い出した。そのことを書いておこう。自分史の一齣のようなメモであるが、こんな時代もあったのだと読んでいただけるとありがたい。

 金沢の町のほぼ中心に香林坊(こうりんぼう)という繁華街がある。駅から市電(今はない)に乗ると、香林坊の交差点で、市電は二つの方向に分かれ、一つは犀川大橋の方向へ。もう一つは、交差点を左に折れ、兼六園へ向かう(路線図がここにある。ただし1967年に廃線となったときのもの。私が住んだ頃、すでにこのようであったかどうか、分からない)。兼六園へ向かう通りが広坂通りである(その先、電車は兼六園の前を左折し、兼六園と金沢城石川門をつなぐ橋の下を通って、卯辰山方面へ向かう)。広坂通りはほぼ東西に走っている、その北側には当時、第4高等学校(四高)や県庁が、南側には市役所、警察署などが並んでいた。金沢の官庁街というか、メインストリートだった。通りの南側、四高の正門向かいよりやや香林坊交差点に近い角地に、教会があった。日本メソジスト金沢教会である。父はその教会の牧師に任命され、15年4月に赴任した。

 私の幼時の記憶は、父が牧師をしていた教会に関わることが多い。以下当時のキリスト教会のことを、あれこれ書くことになる。贅言お許しいただきたい。メソジスト教会というのは、プロテスタント教会の教派の一つである。英国で創始され、米国やカナダでプロテスタントを代表する教派に育った。米国では現在でも、一二を争う大きな教派である(ちなみに、日本では青山学院、東洋英和、関西学院などがこの教派の創設したミッションスクールである)。この教派では牧師の転勤が多かった。それは、毎春教派の総会が開かれ、その年度の牧師の赴任先が決定される仕組みになったいたからだ(教派のいちばんえらい人、監督と呼ばれていたか、が祈りの中で神の意志を聴き、任地を決めていたという)。父はそれまで1,2年おきに担当の教会を転じていた。私が生まれたのは大月市、ついで甲府市、もの心ついた3,4才の頃は茨城県の水海道にいた。そこから金沢に転任したのだった。金沢教会は、金沢を代表する教会であり、教派の北陸地方の拠点でもあった。父にとっては栄転であったのだろう。

 昭和15年4月、父とともに家族4人が教会の敷地内にあった牧師館に転居したとき、庭にはまだ雪が残っていた。その前の冬は大雪だったそうで、掻いた雪が日陰に山になっていた。それまで雪を見た記憶がなかったので、大雪のときには一階が埋まるほど積もるのだと聞いて、大変なところに来たものだと思った。私が住んだ間にはそれほどの大雪はなかったが、冬期には庭にいつも雪が残っていて、板きれを使ってスロープを滑り降りて遊んだりした。スキーの真似事だった。スキーといえば、金沢市内にある卯辰山にゲレンデがあって、それを見た覚えがあるのだが、その後金沢の人にそのことを言うと、そんなものあったはずがないと否定された。幼時の記憶が混乱しているのかもしれない。

 日本メソジスト金沢教会は、旧住所で広坂通り27番地にあった。冒頭に書いたように、現在はその地に香林坊第1ビルがある。ここで最初に掲げた写真の説明を書いておこう。写真左下の通りが広坂通り。それに沿ってビルが並んでいるが、左の方に見える前面が格子状になっている白い建物がそのビルである。前を赤白のバスが通過している。ここが角地であることは、その建物とその先の茶色の小ぶりのビルとの間に路地があって、そこから白いトラックが顔をのぞかせていることから分かる。

 第一生命の金沢支店が、このビルのオーナーであった。名前の由来はそこから来ているのだろう。第一生命は何年か前に別の場所に移り、このビルは再開発を予定しているらしく、使われていない。再開発が頓挫しているとの情報がネットに散見される。日本の地方都市に最近よくある不景気に伴う空きビルの一例だ。だが、私にすれば、せっかく尋ねあてた旧居住地が、幽霊ビルとなっている現況はいただけない。このビルの西隣のビル(白いビルの手前の黒っぽいビル)も教会の敷地だった。現在金沢長町教会と名を変えているこの教会の80年史(昭和44年、1969年発行)によると、もともとメソジスト教会がミッションの援助のもとに金沢に教会を置いたのは、兼六園の西南の入口、真弓坂口の真ん前、現在の広坂交差点の角地(広坂通り1番地)だったという(明治23年、1890年)。現在はそのあたりは金沢21世紀美術館を中心とする公園の一部となっているようだ。その創始時代の教会が、明治43年、警察署用地として買い上げられ、上記の場所に移った。金沢中心地の官庁街を整備する過程で、移転を要請されたらしい。

 明治23年、創始時の教会堂は、加賀藩主前田公がオランダ医師を招いて住まわせた建物、俗称オランダ屋敷を買い受け、移築したものだったという。上記明治43年の移転の際にその建物を移築し大規模な改装もなされた。さらに昭和2年に大改装された。2回の改装を経ているが、かつてのオランダ屋敷であった部分を残していたという。270坪の敷地に教会堂は広坂通り側に大きく前庭を置いたうえで、通りに向かって玄関があった(以下の写真参照)。礼拝堂として使われた大きなホール以外に、いくつかの小部屋があり、幼稚園が併設されて、教室として使われていた。牧師館は会堂の南側、広坂通りから南の鞍月用水の流れる低地へ降る坂道となる道(降り終わると現在はホテルアクティ金沢に突き当たる)に面して建っていた(以下の写真で左端に写っている二階建ての建物)。これは昭和2年に新築されたもので2階建ての大きな建物で、どちらかというと洋館風だった。2階の部屋は集会にも使われていた記憶がある。牧師館の南隣に旅館があった。四高の入学試験の時期になると、大勢の受験生が金沢にやってきて、この旅館でも部屋が足りなくなり、求められて数人の受験生を牧師館2階に泊まらせたりした。敷地の南西の隅に小使いさんの住む小さな家があり、牧師館との間に庭があった。畑だったか、庭木が植わり整えられた庭であったか、あまり記憶がない。当時は教会と幼稚園の清掃その他の用を足す小使いさんを雇っていたのだった。小使いさんは、家族で舎宅に住み、女房が小使いさんとして働き、亭主は金沢医専(現金沢医大)の用務員をしていたと記憶する。この人に連れてもらって、医専の病院を見に行った覚えがある。

 香林坊は目と鼻の先だった。「こうりんぼう」といわずに「コーリンボ」と私は呼んでいた。呼び名からして変な、特別なところというイメージがあった。大人だけが出入りする特殊な界隈で、そこへ行ってはダメと言われていた。だから何か分からないが恐ろしい場所のように思っていた。そのこととコーリンボという名が一つに結びついていた。表の電車通りに映画館があった。そこで銭屋五兵衛の映画を見た。江戸時代加賀で成功した豪商である。ロシアとの密貿易なども行っていて、栄華を極めたが、何か不始末があって投獄・お家取りつぶしになる事件を扱ったものだった。記憶に残る最初の映画である。

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 ここで、往時の金沢教会の写真を前記の教会80年史から転載しておく。教会のぐるりを下半分がコンクリートの塀、上半分が一定間隔を置いて立ったコンクリート柱の間に二本の鉄管を渡した、開放的な塀が取り囲んでいた。この鉄管に腰掛けて遊んだのを覚えている。姉弟でそこに腰掛けた写真を記憶しているが、私の手元にはない。広坂通りの向い側は四高のキャンパスだった。赤煉瓦の校舎が並んでいた。年に一度、運動会か寮祭か、一般公開の機会があって、校庭に入ったのを覚えている。四高の正面の門と本館は、そのまま保存されていて、「石川四高記念文化交流館」として公開さている。またその一部は「石川近代文学館」として、明治から大正にかけて金沢が生んだ代表的文学者、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星、そのほか金沢ゆかりの文学者の紹介をしている。記憶のある赤煉瓦校舎がそのまま残っているのはうれしいことだ。

 ずっと前に機会があって金沢を訪れたときすでに気がついていたことだったが、広坂通りは、昔に比べるとずっと道路幅が倍以上に拡大している。どうなっているのかよく見ると、四高の敷地の縁を流れていた掘り割りが、現在は通りの中央にあり、その両側に樹木が植えられ、緑の連なる中央分離帯となっている(その一部が冒頭に掲げた写真の左端に見えている)。かつての四高の敷地やその地続きの旧県庁敷地を大きく後退させて、香林坊から兼六園までを広い通りとしている。それだけでなく、四高のキャンパスから旧県庁の周辺は、北側にそびえる金沢城の城壁の直下に至る広大なスペースを公園緑地としている。これに続く兼六園と金沢城公園、さらには兼六園から南に延びる石川県立美術館、県立歴史博物館まで加えると、広大で密度の濃い公園空間が都市のど真ん中に広がっている。私の現在住む水戸市も、偕楽園、千波湖、護国神社などがつながって、広い公園となっている。それぞれに趣向は違うが、誇りうる都市環境ではないかと思う。

 昭和15年春、金沢に転居してすぐ、教会付属の幼稚園に入園した。それまで住んだ水海道には、そもそも幼稚園などというものはなかった。姉も私もそれまで幼稚園なるものを知らずにいた。一つ年上の姉は、転居と同時に小学校に入学した。金沢市立新竪町小学校である。次の年に私もそこに入学することになる。幼稚園時代の思い出はほとんどない。記念写真が手元に残っている。兼六園奥の中央部、千歳台に日本武尊の巨大な銅像が高い石の台座の上に立っている。その前の階段いっぱいに百人を超える幼稚園兒が並んでいる。後列真ん中にひときわ背の高い外国人宣教師が立っている。金沢にはカナダ・ミッションの婦人宣教師館があった。金沢教会以外にメソジスト教会が二つほどあって、それぞれに附属幼稚園があったのだろう。またカナダ・ミッションが運営している単立幼稚園もあった。それらの幼稚園が合同で何かの行事をして、その記念写真がこれなのだろう。学生帽のようなものをかぶった男の子たち、白い丸帽をかぶった女の子たちがいる。エプロンをそろって着ている子らもいる。そんな中で私ほか金沢教会附属幼稚園の子らは無帽で私服である。先生たち数人の中に金沢教会附属幼稚園で私らの担任だった嶋村先生がいる。この先生はよく覚えている。幼稚園の子供たちは希望に応じて「キンダーガーデン」や「ひかりのくに」を購読していた。毎月まとまって幼稚園に届くその雑誌に残部があると、ときどき嶋村先生は私にくれるのだった。嶋村先生はその後も縁があった。後日、父が東京の教会の牧師になったとき訪ねてきた。また東洋英和女学院短大保育科を卒業して幼稚園教師になりたての姉を、母は金沢の嶋村先生に預け、そこで修行時代を過ごさせたりした。

 この記念写真のことを覚えていたので、今回兼六園に行った際、千歳台の記念碑を尋ねあて、ここであの記念撮影がなされたのだと懐かしんだ。幼時の記憶のまま残っている数少ない場所だった。記念写真には台座だけが写っていて、上の銅像の部分ははずれていた。こんなどえらいものがさらに上にあったのかと感心するほど、巨大な銅像であった。説明には「明治記念之碑」とある。西南戦争(明治10年、1877年)で戦没した石川県出身者を慰霊するために明治13年に建立されたそうだ。なぜ日本武尊(やまとたけるのみこと、倭建命とも表記される)か。伝説的な人物だが、古代大和朝廷が九州地方にいた反朝廷勢力(くまそ〈熊曾または熊襲〉と呼ばれた)を日本武尊が征伐したことにちなんでいるらしい。

 幼稚園時代に記憶していることがもう一つある。それは紀元2600年記念の提灯行列である。この年、昭和15年(1940)は、神武天皇即位を元年とする日本独自の年号表示(皇紀)でいえば、紀元2600年に当たっていて、盛大な祝賀行事が行われた。11月10日に皇居前広場で内閣主催の式典が行われ、14日までの間、各地で旗行列、提灯行列などが行われた。奉祝国民歌「紀元二千六百年」は、その年も、その後もよく歌われた。「金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて 、いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年 、あゝ 一億の胸はなる・・・」という勇ましいものである。金沢でも夜、提灯行列が行われ、広坂通りをたくさんの人々が提灯を掲げて通り過ぎるのを見た。高揚する気持ちよりも、おどろおどろしいものとして覚えている。すでに日中戦争(当時は支那事変と呼んでいた)は、始まっていた。日米対立、戦争必至という時代の空気の中で、キリスト教会は、白眼視されつつあった。牧師をしていた父のもとには、何度となく憲兵だか特高(特別高等警察)だかがやって来て、不敬罪に当たる言動をしていないかを問い糺していた。戦争へと突き進む中で、教会の牧師家族は暗い気持で過ごしていたのだ。

 そのことは、翌昭和16年に、父の軍隊への応召、さらには太平洋戦争勃発となって、現実のものになっていく。その年に私は、国民学校と名を改めた小学校に入学することになる。これから先、まだ長くなるので、ここまでを前編としてひとまず読んでいただこう。

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コメント

はじめまして・・・、五郎といいます。

いやぁ・・・、
このようなブログが在るとは、驚きました。
(実際には、世の中にたくさんあるのでしょうが、これまでの私では、全く気づきませんでした。)

私の言う「このようなブログ」というのは、「年配方によるブログ」のことです。この金沢の記事によると、昭和15年に5歳・・・?
それは、私の父親とほぼ同年なのです。驚きました。
私の父は、PCすら使えません。
息子の私ですら、少々使える程度でHP作成などには及びません・・・。
・・・びっくりしました。

しかも、HPは10年以上も継続されていて・・・。
私などには、到底、読みきれるものではございませんが、また時々こちらを覗きに来る所存です。これからも、ブログ記事を益々ご更新くださることを期待申し上げます。よろしくお願いいたします。

しかし・・・、
そもそも、なぜ、私は、このブログに遭遇・到達したのか・・・。

そうでした・・・。私は、先程から、ネットで少々調べものをしていたのでした。
調べものの対象は、次のものです。
「少くして学べば、すなわち壮にして為すことあり・・・」
幕末の儒学者「佐藤一斎」の言葉を調べていたのです。
その途上で、こちらのブログに遭遇・到達したのでした。

まさに、かの「言葉」を日々実践し続けているかのようなブログに遭遇いたしました。
本日は、有り難うございました。

また、よろしくお願いいたします。

投稿: 五郎 | 2010/11/25 21:26

ひょんなことからこのブログに遭遇した者です。
また、ブログにこういったコメントレスを書き込みさせて
頂くことも初めてです。

私がこのブログに遭遇したのは、観光ガイド(英語)の
お粗末さが記された文章に触れたことからでした。

以後、海外でのご体験や奥様との楽しげなご様子を垣間見、
ほのぼのとした気持ちになっておりました。

私たち夫婦も、ふたりの時間を楽しんでいく日々が
次第に近づいております。いかにして残りの人生を謳歌して
いけるのか、世界のどの地でその時を過ごすべきか
思案しているこの頃です。(アジア・北欧には滞在経験が
あります・・)

アグレッシブに生きておられる姿をこれからも時々
覗かせてください。


投稿: アカシア | 2010/11/30 23:46

五郎さん

コメント有り難うございます。

こういうコメントをわざわざ書いてくださったこと、感謝します。

時おり気ままに書き継いできたことが、「検索」という便利なツールのおかげで、ひとさまの目に触れ、人と人をつないでくれます。便利でありがたい世の中になったものです。

おかげで老後とはいえやることがたくさんあって暇なしです。好奇心が多方面に拡散し、あれもこれもと手を出し、どれも中途半端に終わっています。それも自分のあり方と受け容れています。

年の割にパソコンを使いこなしているのは、職業柄でしょうか。コンピューターなるものとは、職業人になって以来ずっと付き合っています。パソコンが世に現れて(当時はマイコンといっていましたが)、まず仕事に、まもなく自分用に使いはじめました。そんなことで、歳ですが自然にやってきました。あまり深入りせずに身の丈に応じた使い方です。

またお便りください。

投稿: アク | 2010/12/01 08:49

アカシアさん

コメントをわざわざ書いてくださってありがとうございます。

私が書き散らしたものをこうして読んでくださる方がおり、コメントを寄せてくださる方がいらっしゃることが、励み、というより、背中を押された感じで、書き続ける気になります。

このところ、ブログより、ツイッターの方に「逃げて」いるのですが(ブログを書いてきた人にそういう方が多いようです)、こちらもなおざりにしてはいかんな、と反省します。

アカシアさんは在外経験がおありで、海外移住も考えていらっしゃる。いいですね。私ももっと若く身軽なら、それを考えてみたでしょう。

身軽というのは、自分の活動の基地(蔵書、パソコン環境など)から離れがたいからです。そのため老人ホーム入りももっと先になって考えるかどうか、というところです。

アグレッシブとはとてもいえません。すこしポジティブといった程度でしょうか。

またおいでください。

投稿: アク | 2010/12/01 09:09

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