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2010/12/12

When you are getting on in years

 When you are getting on in years (but not ill, of course), you get very sleepy at times, and the hours seem to pass like lazy cattle moving across a landscape. 〈年をとってくると、(もちろん病気ではなくて)、どうにも眠くてうつらうつらすることがある。そんなときには、まるで田園風景の中に動く牛の群でも見るように、時のたつのがものうく思われるものだ。〉
 妻は寝入りばなに本を読む。そのまま枕元のスタンドを消さず、本、雑誌、新聞などを手に持ったまま寝入ることが多い(注)。昨夜もそうだった。新聞がまるで3角屋根のテントのように、すやすや寝ている彼女の上に立っていた。そのことを今朝になって言うと、出てきたのが、これである。James Hilton "Good-bye, Mr. Chips"(J. ヒルトン「チップス先生さようなら」1934年出版) の書き出しの一節だ。

 妻と私は、昭和28年、大学一年生の時、この小説を英語教科のテキストとして習った。別々の大学で、たまたま同じ教師から全く同じ時期に教わった。どの大学でも、教養課程の外国語教育を専任教師だけでまかなえるほど教授陣を揃えていなかったのだろう、非常勤講師があちこちの大学を掛け持ちするのは普通だった。今でもその事情は変わっていないのではないか。それにしても同じ先生から同じテキストで習ったとは、かなり偶然の賜物だろう。幼なじみ同士であったとはいえ、当時はそんなことは知るよしもなかった。結婚後何かのきっかけでそのことが分かったのだった。

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2010/12/06

金沢に住んだ頃(後編)

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    【記憶のある犀川大橋を見に行った】

小学校入学 昭和16年(1941)小学校に入学した。新竪町小学校である。住居からはかなり遠かった。広坂通りを兼六園のある広坂交差点まで行くと、そこから南へ犀川へ向かう大きな通りがある。本多通りである。その道を1キロ弱、犀川大通りとの交差点、鱗町を超えたところにこの小学校がある。明治3年に創立され、明治19年以降ずっと現在地にあるという金沢では歴史の古い小学校である。平成12年に創立130年を迎えている。学校のホームページには、この校区ゆかりの有名人として三宅雪嶺、鈴木大拙、室生犀星、藤岡東圃の名をあげている。この小学校出身かどうかは明記されていないが、この地区の出身である。実際、金沢を訪れたとき、本多屋敷跡から坂(大乗寺坂)を下り、本多町を横切って、新竪町小学校へ向かったとき、鈴木大拙生誕の地に出くわした。禅と日本文化を外国に紹介した仏教学者として知られる。

小学校、じつは国民学校 私の入学した年に学制改革があって、小学校(正確には尋常小学校)は国民学校初等科と名を改められた。教科書も変わった。「ヨミカタ」という名の国語の教科書の一年生のものは、その最初のページが「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と始まる。それまでは「サイタ サイタ サクラガサイタ」だった。新教科書はその数ページあとに「ヘイタイサン ススメ ススメ  チテ チテ タトタ テテ タテ タ」などとあって、戦時色が出てきている。そのあたりに学制改革の意図がにじみ出ている。国民学校は、戦後の学制改革(新制中学、新制高校など)まで続いた。昭和22年3月までちょうど私が在学した6年間が丸ごと国民学校時代だったのである。

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2010/12/02

深町純の死

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 純が亡くなった。突然の死だった。心臓の動脈解離(動脈の層構造が剥がれてしまう)が原因とされる心嚢血腫(心臓を包む袋の中に出血)で、22日夜、寝ているうちに突然死してしまった。葬儀で会った純の妹、エリによると、一週ほど前に、視界が真っ暗になるという予兆があったらしい。その時に診察を受けていれば、死を避けることができたかもしれない。彼の死で失ったものが大きいだけに惜しまれる。病院嫌いは親譲りなのだろう。彼の父も病院嫌い、医者嫌いを通し、何か訳の分からないままに自宅での死を迎えた。私の叔父に当たるこの父親の死についてはここに書いた。純とこの父親についても話題にしている。

 彼は稀代の反逆児だったから、自分の葬儀などまっぴらごめんというところだらう。しかし、遺族や周辺の音楽関係者にはそうはいかず、この葬儀となったようだ。弔辞の中で友人が語っていたことによると、彼はこのところ「カドが取れて」丸くなったというから、それでいいよと言っているかもしれない。日本基督教団の目白教会で葬儀が行われた。その場所は、純にとっても無縁ではない。幼児の頃、その教会の近くに住んだ。母親の通った教会であり、自分も教会付属幼稚園に通った。日曜学校にも出たことがあっただろう。その教会に、多くの音楽関係者や彼のファンが集まり、彼の死を悼んだ。彼の棺に花を手向け、彼との最後の別れを惜しむ人々の列は、1時間以上に及んだ。親族ゆえ最初に献花をすませ、そのまま会場の外に出てしまったあと、久しぶりに顔を合わせた姉弟たちと四方山話するために寄った近くの喫茶店の窓外を、ひっきりなしに弔問を終えた喪服の人たちが通り過ぎるのを見た。

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