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2010/12/06

金沢に住んだ頃(後編)

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    【記憶のある犀川大橋を見に行った】

小学校入学 昭和16年(1941)小学校に入学した。新竪町小学校である。住居からはかなり遠かった。広坂通りを兼六園のある広坂交差点まで行くと、そこから南へ犀川へ向かう大きな通りがある。本多通りである。その道を1キロ弱、犀川大通りとの交差点、鱗町を超えたところにこの小学校がある。明治3年に創立され、明治19年以降ずっと現在地にあるという金沢では歴史の古い小学校である。平成12年に創立130年を迎えている。学校のホームページには、この校区ゆかりの有名人として三宅雪嶺、鈴木大拙、室生犀星、藤岡東圃の名をあげている。この小学校出身かどうかは明記されていないが、この地区の出身である。実際、金沢を訪れたとき、本多屋敷跡から坂(大乗寺坂)を下り、本多町を横切って、新竪町小学校へ向かったとき、鈴木大拙生誕の地に出くわした。禅と日本文化を外国に紹介した仏教学者として知られる。

小学校、じつは国民学校 私の入学した年に学制改革があって、小学校(正確には尋常小学校)は国民学校初等科と名を改められた。教科書も変わった。「ヨミカタ」という名の国語の教科書の一年生のものは、その最初のページが「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と始まる。それまでは「サイタ サイタ サクラガサイタ」だった。新教科書はその数ページあとに「ヘイタイサン ススメ ススメ  チテ チテ タトタ テテ タテ タ」などとあって、戦時色が出てきている。そのあたりに学制改革の意図がにじみ出ている。国民学校は、戦後の学制改革(新制中学、新制高校など)まで続いた。昭和22年3月までちょうど私が在学した6年間が丸ごと国民学校時代だったのである。

通学路 先に小学校の位置を本多通りから説明したが、実際の通学路はそんな回り道をしない。教会から広坂へ広坂通りを行くと、そのほぼ中程に市役所がある。その前を通り過ぎた先に南に折れる道があり、そこを辿るのが、まともな行き方だった。道沿いに金沢師範附属小学校があったのを覚えているが、今はないようだ。別ルートがあって、住居から広坂通りに出ずに、牧師館前の坂道を南に坂を下る。すぐに用水路にぶつかる。鞍月用水という名だ。金沢は用水路が多い。市街地での生活に必要な水の確保とともに、水運に使っていたのだろう。鞍月用水は低地の谷を辿りながら、そのまま新竪町小学校の方向へ向かっている。その用水路沿いの道を行くのが最短の通学路だった。

通学路沿いに思い出す景観なし 今度、5,6歳頃の幼児期を過ごした金沢へ、思い出の旅をしたのだが、がっかりしたことがいくつもある。70年もの年月が経っている、町の様子がすっかり変わっているのは当たり前のことだ。それにこちらの記憶も定かではない。思い出にある道筋を行ってみたが、見たこともない風景に変わっている。街角も、道沿いの建造物も、用水路沿いの景観もすっかり変わっている。通学路がここだったと思い出せる手がかりは全く見いだせなかった。学校の近くに犀川大通りがとおり、鱗町交差点があることなど、全く記憶になかった。おそらく交通事情の変化に応じて道路は拡幅されたし、新しい道もできている。印象が全く違うのは当然だ。浦島太郎の気分だった。

新竪町小学校、昔と今 小学校自体が変わっている。すっかり建て替えられている。私が入学した頃は、とてもモダンな校舎だと評判だった。先に書いたように歴史の古い小学校だが、校舎が木造のものからコンクリート建てに替わってまもなくだったのではないか。校舎と、講堂を兼ねた体育館があったが、もっと複雑な配置だったように記憶する。体育館には片側の壁一面に肋木という体操用の設備があった。北陸地方は冬の天候が悪い。ほとんど晴れの日がない。毎日雪がちらつく。体育や休み時間の遊びはこの体育館でおこなわれる。そのため体育館が当時としては、よく整備されていたのだろう。今回再訪してみると、校舎はコンクリート4階建てが、マッチ箱を立てたように一棟建っているだけ。校舎から離れて、下が駐車場、柱で支えられ宙に浮いた形で体育館らしき建物があり、校舎と2階の高さでつながっている。なんだか味も素っ気もない建て方だ。これがわが思い出の小学校かと、いささかがっかりした。

太陽灯 冬の天候の悪いことを書いたが、それに関連して「太陽灯」という名の設備で「日光浴」をした記憶がある。今、ジムなどに設備されている人工的に日焼けするためのマシンと同じようなものだ。丸い球状の(たぶん金属製の)部屋の小さな入口から、学童約10人が、パンツ一つになって入り、天井に吊された太陽灯からの紫外線を全身に浴びるのだ。北陸のような場所では、冬は日照不足になる。ビタミン D不足が原因の佝僂(くる)病(骨の発育不全)になる子がいたのだろう。日光にあたると体内でビタミンDができる。それを人工的に補うのが太陽灯で、北陸地方の小学校に、その当時設備されていたようだ。全員ではなく、先生が選んで特に虚弱な子らが選ばれて太陽灯にあたっていた。毎週一回だったか、定期的にあたる順番が来るのだった。私は2月の早生まれだから、クラスの中では発育が遅れ小柄な方だったのだろう。あるいは病気がちだったのかもしれない。紫外線を直視しないように、特殊な眼鏡をかけて10分程度太陽灯にあたった後、出口で保健の先生が肝油入りのゼリー錠を口に入れてくれた。そんなことが特に記憶に残っているのは不思議だ。この太陽灯は、その後栄養面が改善されて、必要がなくなったのだろう。そんな設備が学校にあったと話しても誰も信じてくれる人がない。過去の一時期に導入され、忘れられたもののようだ。

隣席の女の子 ほかにこの小学校で覚えていることはわずかだ。太平洋戦争勃発の朝、講堂に集められて校長先生の講話があったこと、そして隣席の女の子のこと、ぐらいだ。小学校のクラスでの席順は、縦に一列おきに、男の子の列と女の子の列があり、前から後ろには成績順にできない子からできる子へと席順がきまっていた。成績順なんて、小学校一年生からできるのか、できるとしてそうしていいものか、今考えると疑問だが、その時期、その学校ではそうだった。そして私は最後列にいたのだから、早生まれのおくてにしては、できると認められたのだろう。先生の質問によく手を挙げてはきはきと答える隣の席の女の子をちょっと意識したのを覚えている。

特高の訪問 昭和15年から16年へ、軍に主導された政治がどんどん戦時色を強め、中国での戦争からさらに米国との戦争へと傾いていく中で、国粋主義的世論への誘導と、それに従わないものへの思想的弾圧が陰に陽に進んでいた。キリスト教会もそのターゲットだった。前編にも書いたが、父のところに頻繁に特高が訪れて、思想傾向を試問していた。父が「金沢野町教会80年史」に寄稿している文を引用する。

 昭和16年になると県の特高の人と憲兵が毎週一回ぐらいやって来ては、何かとこちらの情報をさぐるようなことをしておりました。ある時一憲兵が来宅の折、私に「キリスト教の神と天皇陛下とどちらが偉いか」と問いただしてきました。その時私は「あなたは帝国憲法第1条に、何と書いてあるか知っておりますか。『天皇は神聖にしておかずべらかず』と書いてありますが、そんな比較論をしていいのですか」と反論しましたら彼氏は沈黙して帰って行きました。忘れ得ない出来事でした。

 国家神道のもと天皇を現人神(あらひとがみ)とする神がかりなイデオロギーで国論を統一し、戦争へとおもむこうとする軍国主義政府にとって、キリスト教会は、邪魔者、あるいは反抗者と見なされていた。牧師だけでなく、信者の行動も見張られたり、あるいはキリスト教徒というだけで、冷たい視線で見られる、そんな時代になっていた。同じような経験は各地のキリスト教会で起きていて、当局になびかず抵抗の姿勢を示したホーリネス派や救世軍は弾圧を受けた。

教派の合同 昭和16年6月、政府の実質的強制によって、キリスト教のうちプロテスタント諸教派は合同して一つの教派となった。日本基督教団という名のもとに一つになった。プロテスタントは、カトリックのような権威(法王)がない分、自分の主義主張にこだわり、意見が違えば分裂するという本来的な傾向がある。当事者にとっては譲れないものだが、端から見れば些末ともいえる差違を根拠に、大小さまざまの教派ができてしまっていた。長老派、ルーテル派、メソジスト派、組合派、ホーリネス派などさまざまだ。教派間には、小異を捨てて一緒になろうという運動もなくはなかった。何のことはない、帝国日本の強制力によって、夢の合同が実現したわけだ。政府にとって一つにまとめることによって、統制しやすくすることが目的だったのだろう。地方の新聞社の統合にも同じような事情があったようだ。日本基督教団は戦後、その強制力が解け、一部の差違にこだわる教派は抜けたが、大部分はそのまま存続して今日に至っている。この合同によって、いくつかの変化があった。まず各教派を海外から応援していたミッションとの関係が絶たれた。また同じ都市に、いくつかもの日本基督教団の教会が存在することになった。金沢では二つの「金沢教会」が存在することになり、メソジスト派金沢教会は、日基と呼ぶ長老派の金沢教会にその名を譲り、日本基督教団金沢広坂教会となった。さらにメソジスト独特の牧師任命制がなくなった。各教会が人事面では単立の形でフラットに存在することになった。牧師の異動がなくなり、よほどのことがない限り終身同じ場所にとどまるようになった。引退などの事由で牧師がいなくなると、どこからか招聘する、という制度に変わった。私の家もそれまではある種の転勤族家族だったが、それ以後はそのようでなくなった。

父の出征 ところがそれとは別の事情で、この地を離れることになった。昭和16年7月、父のもとに招集令状が来た。勘ぐれば、特高か憲兵の差し金だったとも取れる。父は20歳の時に受けた徴兵検査で甲種合格だった。合格者は直ちに(翌年1月10日)初年兵教育のため入営(招集令状あるいは志願により兵営に入ること)することになっていた。そのさい別の道があった。幹部候補生制度だ。旧制中学卒業以上の学歴を持つ人を対象にして、ある期間(10ヶ月とも1年とも)軍幹部としての教育を施し、さらに短期間(4ヶ月)の実務訓練を経て、予備役少尉の資格を与え、いつでも招集できるようにしておく制度である。父はこれを選び、関西学院神学部卒業後、幹部候補生教育を受けていた。招集令状は突然だったが、1週足らずの間に準備をして(制服、軍刀、ピストルなどは自前で用意する)、頭を丸刈りにし、金沢駅頭で教会員らの見送りを受けて出征していった。所属は宇都宮師団。本籍地茨城県では県西部出身者は水戸ではなく、宇都宮の管区に属していた。直ちに北満州へ派遣された。関東軍の一員となったのである。

祖父の代理牧師 牧師のいなくなった教会は、急場の補充が間に合わない。その助っ人になったのが母方の祖父、深町正夫であった。私の家は、父方も母方も、私から数えて3代前から牧師という家系である。父方の祖父は私の出生前になくなっていた(この祖父のことは、ここに書いた)。母方の祖父は牧師を引退し、その長男が当時牧師をしていた信州上田にいた。そこから来てもらって、とりあえず代理牧師を務めてもらった。祖父とははじめて同じ屋根の下に住むことになったが、おっかない人だった。徳川家直参の旗本の子として生まれ、それらしい雰囲気を残していた。金銭を自ら出し入れをしない、もちろん厨房には入らない、曲がったことは断固として許さない、そんな人だった。どんなことがあったのか覚えていないが、一度私が何かの間違いをしでかしたのだろう。物差しを持った祖父に追いかけられたことがあった。病弱ですでに身体が弱っていたから、逃げ回るのは簡単で、お仕置きを免れた。広い教会堂で大きな声で日曜礼拝の説教をするのが、かなり負担だったのを母が心配していたのを覚えている。

太平洋戦争勃発 父が出征していなくなった状態で、太平洋戦争が始まった。16年12月8日、午前7時の臨時ニュースを聞いた時のことを覚えている。

『臨時ニュ-スを申し上げます。臨時ニュ-スを申し上げます。大本営陸海軍部午前6時発表、帝国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。』

 台所で朝食の準備をしていた母とともに聞いた。祖父は「大変なことになった」と呟いた。学校でも朝礼で、校長先生が、開戦のことで訓辞した。たぶん、銃後を守る少国民として戦勝を祈りつつ勉強に励みましょうというような訓辞だったろう。それから毎月8日には神社への参拝が定例の行事となった。

金沢を去り、名古屋へ 次の年昭和17年2月、次の牧師がカラフトから呼ばれて着任することになった。それを期に祖父は伯父のもとに戻り、私らは母と10歳ほど年の差のある若い叔父とともに名古屋に住むこととなった。叔父は青山学院商科を卒業し大手信託銀行に勤めていたが、名古屋支店に配転となったのだった。独身の叔父と、私ら出征軍人留守家族が、一緒に住むのは互いに好都合だった。学年末の2月の転校だった。新竪町国民学校には10ヶ月しか通わなかった。一年生の成績表はこの学校から名古屋の転校先の学校へ送られてきたのを受け取った。やっと慣れたばかりの学校を変わり、転校先の学校に馴染めず、名古屋では”低空飛行”の学校生活だった。ところで一緒に住んだこの叔父が、先ほどなくなった音楽家・深町純の父親である。私はその叔父を父親代わりとして、名古屋に2年半ほど住んだ。この叔父が亡くなったときに、若かった叔父の思い出などを書いたものが、ここにある。

その後のこと ついでのその後のことも書いておこう。父は予備役招集の年限(3年)を終え、昭和19年の夏前に帰ってきた。日本軍は太平洋やビルマなどでの戦いに連敗し、精鋭といわれた関東軍部隊を南方へ振り向けつつあった。その中での兵役解除は、父にとって幸運だった。父の所属する部隊は、父の除隊と同時期にトラック島に送られ、その後玉砕した。同じ運命を辿ることを父は紙一重で免れた。父は帰国後、教会牧師に復帰することになり、牧師のいなくなっていた日本基督教団大分教会へ赴任した。そこで昭和27年まで8年間を過ごした。終戦の年に再度招集され、陸軍中尉、中隊長として米軍本土上陸に備え、鹿島灘の防衛にあたった。終戦後日ならずして、私らのところに帰ってきた。私は大分の地で小学校を終え、中学校から高校の途中まで、いわば少年期を過ごしたのだった。

深町という家 代理牧師をしてくれた祖父正夫は、金沢での無理がたたったのか、伯父のところへ帰った後まもなく心臓麻痺で亡くなった。町の銭湯へ行き、そこで急逝したのだった。祖父を看取った伯父深町正勝は、この後静岡教会に移り、戦中戦後を通じて長くこの教会の牧師と東海教区の教区長を勤めた。その長男は、つい数年前まで青山学院院長を務めた深町正信である。深町家のルーツについては伯父は小冊子を作り、私ら縁あるものに残してくれた。幕末まで徳川将軍家の旗本で、維新前までは麹町に住んでいた。その屋敷跡を尋ねあてた次第をホームページに書いたことがある(ここ)。こうしてみると、自分の親戚関係をホームページやブログでけっこう話題にしている。

思い出の場所 短い金沢居住時代だったが、前後編に分けて長々と書いたように、いくつもの思い出がある。書かずじまいだったが、兼六園はもちろんのこと、金沢城の石川門(当時は師団の駐屯地であったため城内に入れず、この門を外から見るだけだった)、広坂近くの石浦神社、四高裏の尾山神社など、変わることなく、記憶のままの姿でそこにあるのがうれしかった。犀川へも行ってみた。犀川大橋(登録有形文化財)は、そのままの形でそこにあった。そのあたりからの川の眺めは、周囲の建物を別にすれば、昔のままだ。浅野川についてはあまり覚えていない。そのそばのひがし茶屋街での夕餉を今回は楽しんだが、初体験だった。どちらかの川辺にかつて「かき舟」があり、そこで牡蠣料理を供していると父が話すのを聞いたことがある。香林坊の先の武家屋敷もはじめて見た。ここがこのように整備されて観光の対象になったのは戦後のことなのだろう。

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用水を眺めた場所 住居の近くに思い出の場所があった。鞍月用水は香林坊交差点のあたりで一旦地下に潜る。その先で、香林坊の裏通り飲食店街沿いの用水となり風情を添えている。地面から姿を隠すあたりが、ごく近くで、遊び場だった。金沢教会の隣に福音館書店があって、その先で広坂通りと用水との間の地所は三角形状に狭くなる。当時は空き地で子供の遊び場だった。用水路沿いはちょっとした崖になっていた。その崖縁あたりから、下を流れる用水が激しく暗渠へと流れ込んでいるのを飽きもせず眺めていたものだ。その場所がモダンな彫刻を囲んだグリーンスペースとなっている。隣のミスタードーナッツの裏手から、そしてグリーンスペースとの間にある地下道入口から階段を降りた踊り場の金網越しに、辛うじてこの用水を見ることができた。水は変わらずとうとうと流れていた。(上掲の写真はそこから撮ったもの)

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