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2011/02/06

76歳、現状報告

 76歳になった。いい歳だ。自分がこんな年齢になったとは信じられない。まだまだ若いつもりでいる。週に4、5回、それぞれ1〜1.5時間程度、プールで泳ぐ。ほかにスポーツジムのエクササイズ(ピラティスなど)にも参加する。元気にこなしている。おかげで健康状態はすこぶる良い。スリムな体型を保ち、身体に何の問題もない(じつは昨年原因不明の下血があり、5日間ほど入院したが、その後順調である)。

 知的活動も衰えたとはいえ、多方面にわたってモティベーションを維持している。読書、インターネット(ブログやツイッターの読み書き)、パソコンやその他電子機器(MacとiPhoneを組み合わせたデジタル生活)、デジタル写真(撮影、画像処理、それらの先端の追っかけ)そして旅行(海外旅行はこのところ、年1,2回程度、ほかに国内旅行も)など、持てる時間で追いつかないほどの知的興味を持続している。

 もちろん年齢相応の衰えを感じている。このブログに、誕生日を迎えたのを機会に、何度か所感(例えばここ)を書いている。また年賀状代わりの家庭新聞(ここ)で、毎年近況報告をしている。それを読み直してみると、老いへの言及が多くなっているのに気づく。また同じことの繰り返しになりかねない。そこで今回はもう少し掘り下げて、現状と心境を書いておこう。


 総じていえば、これでいいのかという自己反省、現状への物足りなさ、過去への失意などが半分、片方では、これでいい、このまま行こうという自己受容が半分、というアンビバレントな気持を抱えてやっている、というのが正直なところだ。

不満を抱えた毎日 自分がこうしたい、このようにありたいという分の何分の一も達成できていないという不満をいつも抱えている。気楽にのんびりと過ごしている時間はほとんどない。絶えず何かに取り組んでいる。アイフォーンに入力してある ToDo(やるべきこと)リストを毎朝見直すのだが、前日分からの繰り越しが5〜10項目もある。近日中にやるべき項目は、それに倍する数ほどある。それに追われて、毎日を過ごしているが、思うほどにこなせない。処理能力をはるかに超えた受注量を抱えながら、納品できず、発注先に納期遅延の申し訳ばかりしている小企業のおっさんの心境だ。解決策は簡単。そんなに受注しなければ良いだけの話。ところが自分だけのためのToDo 管理の場合、自分のキャパシティはるかに上回って、やりたい、やれるだろうと、思ってしまう。そして定常的に負荷過重に陥って、ストレスを感じ、失望におそわれる。自己管理ができていない。だめだなあ。そんな毎日だ。

欲するほど進まない読書 例えば読書。読みたい本は多々ある。読解能力を超えてたくさんの進行中の読み物を抱えている。今日現在進行中のものをあげてみると、

・「職業としての科学者」(佐藤文隆、岩波新書)。科学論関係を読み続けているシリーズ。
・「量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ」(D. ランドリー、青土社)。物理の専門書は読まなくなったが、宇宙論から素粒子論まで、物理学の最先端については関心がある。現代物理学の基礎理論として、また多彩な応用のための道具として大成功している量子力学だが、その根っこのところに未解決の問題がある。いわゆる量子力学解釈問題だ。サイドストーリーだったこの問題が、意外に最先端の行き詰まりに関係があるのかもしれない。問題意識を再活性化して読んでいる。
・「偶然性・アイロニー・連帯」(R. ローティ、岩波)。これはトイレ読書のシリーズ(注1)。
・「HDR Digital Photography for Dummies」(R. Correll, Wiley)。最新のデジタル写真技術を学ぶため。

読みたい本、読まずじまいの本 じつは読書中リストは、しばしば改変される。上記リストの何倍もの「これから読む本」を抱え、その何十倍の「読みかけたが未了のままになってしまった本」が死屍累々、といった状態で、箱ファイル(注2)に納まっている。さはさりながら、本屋に行くと読みたいという本が目に留まる。買おうかという気になる。だが、あの本を読み終えない限り買うまいと、やっと思いとどまる。インターネット上に、アマゾンという便利なネットショップがある。さまざまな情報に出会うと、つい買いたくなる。数クリックで買えてしまう。翌日には本が届く。ますます未読の本が積み増すばかりである。

(注1)トイレに座って哲学書を読む習慣については、どこかで書いたことがある。98年春に意識してそれを始めた記録がある。旅行中を除き、ずっと続いている。トイレには、妻が作ってくれた布袋が吊してあり、それに本を入れ、赤鉛筆も挿してある。一度に1ページとか、ワンパラグラフしか読めないから、1冊を読み終えるのに数ヶ月から一年もかかることもある。しかし持続は力である。ウィトゲンシュタイン、クワイン、ローティなどを中心に読んできた。ローティの「哲学と自然の鏡」を読破したのもここでだった。

(注2)野口悠紀夫の袋ファイルを、箱に拡張したもの。関心を持ったテーマ別に読むべき本や資料をダンボールあるいはプラスティックの箱に収めてある。「地球温暖化」「村上春樹」「東京街歩き」「歴史上のイエス」「経済学とは」など、てんでバラバラのテーマの10あまりの箱が書斎の床や机上に並んでいる。

底の抜けたざる これに加えて、定期購読の雑誌類がある。TIME、ナショジェオ、文藝春秋、風の旅人など。ほかに縁の切れない学会誌が2種類ほどある。それに毎日の新聞。これに漏れなく目を通し、注目記事はスクラップして、保存する(最近はスキャンして、ネット上の保管庫(Evernote)に保存する。とても読み切れないし、読んでも記憶に留まらない。底の抜けたざるに豆を放り込んでいるようなものだ。しかも豆の量ときたら、ざるの容量をはるかに超え、放り込めずにいる豆が、ざるの脇にうず高く積もっている状態だ。この作業自体に無理がある。

インターネットに費やす時間 情報の入り口は、書籍、雑誌、新聞の類だけではない。それとほぼ同じぐらいのウェイトでインターネットがある。これが、けっこう生活時間の大きなセクターを奪う。日常的に読みに行くブログがいくつかある。NYTなどの外信も気になる。それらから得る情報が多い。情報を得れば、その孫引きへと深入りする。気がつくといつの間にか、パソコンの前に何時間も座っている。情報の受け手になることが大半だが、たまには書いて発信することもある。かつてはホームページに書いてきた。今ではほとんど開店休業状態である。ブログも、このブログともう一つをやっている。最近では、めっきり書く頻度が少なくなった。考えをまとめ、集中して書くことの能力(脳力)が減退したせいだ。代わりにツイッター(ツイッター名:aquamasa)がメインとなった。フォローしている人の書いた大量の「つぶやき」が流れてくる。毎日2,3回、パソコンかiPhoneで、それを読む。けっこう内容のある重いものを書く人をフォローしているので、読むのも時間がかかる。読み飛ばしてしまう場合もあるが、結構しっかり読んでいる。今のところツイッターだけは、辛うじて収支を償っている。

その他もろもろ 同じようなことは、まだまだある。写真活動、パソコンの技術面、音楽鑑賞、東京街歩きなどである。それぞれ折に触れて熱中して取り組み、生半可な状態でずるずると続いている。もう一々書くのはやめておこう。

逆転、それでいいではないか こう書いてくると、自分でも呆れてしまう。めちゃめちゃで破綻寸前である。何のためにそうまで焦って無理をしているのだろう。かねてから「楽しむ老後」を主張してきた。これじゃぁ、楽しむどころか、苦労ばかりではないか。そう思われるだろう。ところがどっこい、本人はこれでよしとしているのだ。何のためだったか。自由に、好きなことに使える時間を、気持の赴くままに、知的世界に遊びたい。別に何かを達成したいとか、成果を残したいとか、ひとさまのお役に立ちたいとか、そんなことは元から念頭になかった。以前、自分の納得のいく世界理解を得たいと書いたことがあった(ここ、前記リンクと同じ)。しかし所詮、余生の遊びである。目標ではなく、過程を楽しめばいい。たとえそこでもがいているように見えようと、それが楽しいのである。完成したり、終わったり、稔りがあったり、一山越えたり、自己実現の手応えを感じたり、・・・といったことはなく、やりっ放し、投げやり、移り気、オープンエンドのまま、はちゃめちゃ、あるいは破綻状態、・・・それででいいのだ。こうして走り続けているのが私なんだ。自分がその時その時に何かに取り組んでいる、特に新しいものに取り組むときの、ある種ときめきのようなもの、それを感じ、生きている充足感を感じている、それでいいではないか。身体と気持が元気でいる間、知的好奇心が持続し、脳力がそれなりにともなってくれている間、このような生き方を続けていこう。当然のことながら、だんだん衰えていき、やがて火が消えるように収束していく。残ったものは大量の蔵書、書き散らした数々のファイル、未処理の画像ファイルの山、それらを納めた何基かのハードディスク、・・・。私という抜け殻。まあ仕方ない。後始末は残されたものに委ねるしかない。ゴミ処理車でも呼んでもらおう。

 これは、ある種の開き直り、居直りだな。前半に書いてきたことの大逆転。なに?自分1人で楽しんでいる? そうかも。

批判する妻 もう一つ、私のこのようなあり方の最大の批判者である妻との、緊張関係も書いておくべきだが、今はやめておく。このように書くことで、私の内心を少しは理解してくれるといいのだが、それは望み薄だ。大反撃が待っている。


汝もまた憩わん 時には思うこともある。ゲーテのよく知られた詩、「旅人の夜の歌」のように、「汝(なれ)もまた憩わん」というような事態がやって来て、鎮まった心境になることもあるだろうと。

すべての峰に
憩いあり
すべての梢に
かぜ
絶えぬ
森に小鳥の声止みぬ
待て しばし
汝もまた 憩わん

 ゲーテが31歳のとき、ドイツ、チューリンゲン地方のある山の頂に登り、夕日の沈むのを見ながらこの詩を詠み、山頂の山小屋の壁に書き記した(たとえばここ)。ゲーテは82歳の誕生日前日、再びこの山小屋を訪れ、壁に残った詩を読み、「その通りだ、待てしばし、汝もまた憩わん、だ」と呟いたと伝えられる。翌年彼は82歳で亡くなった。

(上記翻訳は、私の記憶にあるもの。確かめてみると、部分的にはどれかの翻訳と一致するが、完全に一致する翻訳はない。たぶん.記憶違いとも、記憶の中で勝手に合成されたものとも思える)

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コメント

ご無沙汰しています。
福島原発雑感で構いません。専門家としての意見、考えを書いてもらえませんでしょうか。

投稿: 魔法使い | 2011/05/18 00:42

魔法使いさん、こんにちは。

原子力については、私も長年、身近に見てきた身ですから、今回の事故で感じることは多々あります。そのうちにまとまったものを書いてみるつもりです。

とりあえずは断片的にtwitterに書いたものをご覧ください。

このブログの右のコラムの右上に"MY HOMEPAGES"という欄がありますね。その2行目”Twitter-twilog(aquamasa) ™をクリックしていただくと、私がtwitterに書いたものをまとめ読みできます。まずはそれをざっとご覧になってください。

投稿: アク | 2011/05/18 11:02

Aquarianさん、こんんちは。
松本先生関連で、来るようになりましたが、
なかなかAquarianさんには認めてもらえませんね。
人生の先輩として私も知的好奇心を失うことなく
探求の人生を送りたいと思っています。
これからもブログの更新よろしくお願い致します。

投稿: 屋台ブルー | 2011/07/07 23:28

朝日新聞の連載「原発とメディア」を担当しております。
木村繁さんのことなどについてぜひ、お話をうかがいたく思います。ご返事をいただけたら幸いです。どうかよろしくお願い致します。

投稿: 上丸洋一 | 2011/12/09 10:57

若輩者が僭越ながら、初めてご連絡申し上げます。

恩師(物理学者)が、古いご学友(同じく物理学者)を最後に見舞ったとき、「僕らは辛い。死ぬまで現役」と言って笑われたそうです。
死の直前にあっても、目にする、耳にするものの中に、かつての自分が追及した何ものかへの回答が潜むかもしれない。恩師と友人は、その一瞬がもたらす至福を味わんがために一生を捧げる。
たとえ、立場は変われど、日本は、そういう人材(原子物理学者)を、未来永劫必要とする国であると思っています。
物理学者は「元」であることはできないのでは?

投稿: 桜上水confidential | 2012/05/25 01:54

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