2009/04/23

野町和嘉写真展・『聖地巡礼』

090423nomachi

  【『霧の中の沐浴』写真展チラシから転載】

 野町和嘉の写真展『聖地巡礼』を見た(東京都写真美術館、09/3/28-5/17)。野町が、35年にもわたって撮り続けているテーマは一貫していて、過酷な自然の中での人々のたくましい生きざま、特に彼らが超越者に依り縋り、祈り、献身し、救いを求める姿である。今回の展覧会では、この1,2年インドのガンジス川(現地語では「ガンガー」)を、上流から下流まで、そして雨期の増水時期にも出かけていって撮影した新作と、これまでのアフリカ、イスラム、アンデスなどの作品とをまとめて展示している。過去の写真展や、数多く出版された写真集などで見たものもあるが、壁一面の巨大サイズを含む大小のプリントの迫力はさすがだし、何よりテーマの訴求力には圧倒されてしまう。

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2007/06/19

ローティとヴァッティモの「弱い思考」、そして「宗教の未来」

 一冊の書物がある。読み終えたばかりだ。それについて何かのまとめをここに書こうとする。しかし始めて見ると、何かを書けるほどの理解に達していないことに気づく。もう一度丹念に読みなおす。さらには周辺に拡げてみる。関連したいくつかの論考などを、雑誌やネット上に見つけて読むのだ。それでも、やはり書くモティベーションが高まってこない。これは書けそうもないな。あきらめるか。でもこの山を越えないと、ほかに何もできそうにない。精神的窒息状態というか。頭のなかのパイプにプラグが詰まった感じで、それをなんとか抜かないことには、どうにもならない。そんな状態にときどき陥る。何かをブログエントリ上に排出しないことには、前に進めない。そんなエントリが、私のには、ままある。読者には申し訳ないが、自分のためのガス抜きである。これもそれになるだろう。

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2007/06/07

思いがけず、聖書への回帰

 妙ないきさつからある聖書講義を聴講することになった。それだけならいい。さらに思いもよらぬ深みにはまりつつある。私には、言い過ぎ、書きすぎの傾向があるのを自覚する。この講義の講師、太田道子を、あるエントリ(「『聖書と現代社会』を紹介する」07/1/15)でつい筆が滑って「女親分」と書いてしまった。これが災いしたようだ。この連続講義は、ある女子大学の同窓会の主催である。それを企画した同窓会長さんが、女親分に私をぶつけてみると面白かろうと、ふと思ったのかもしれない。あるいはこの女親分に感化されて、私がまともな道に戻るかもしれないと淡い期待を抱いたのかもしれない。そのあたりの真相は確認していない。

 そのようなご配慮を尊重するのが私の性分である。とにかく私は神妙に講義に出た。旧約聖書の「出エジプト記」を読むという、毎週一度5回連続の講義であった。三十余年このかた、聖書など手にしたこともない。しかし、幼少年時代から刷り込まれたキリスト教の基本知識は、教会を離れた今も、持ち合わせている。本気で聖書や神学を勉強したこともある。講義内容には違和感はなかった。はじめて対面した太田道子さんは、私が読んだだけで女親分と見抜いたとおり、大迫力があり、カリスマ的といってもいいほどだった。他方、女子大卒のおばさまたちの席にいることの違和感は猛烈にあった。何で私がここにいるのだと。

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2007/02/18

仏教と量子力学

 今さらという気もするのだが、現代科学技術の基本理論である量子力学と、仏教の基本的考え方に親和性があるという言説が一部で行われている。私はこのような主張をすることに疑問を感じてきた。まず、科学は科学、宗教あるいは宗教思想はそれ、それぞれの目的も方法も違う。無理にこじつけない方がいい、と思う。また仏教者が重視する量子論の意味合いと、科学技術の現場での量子理論の使い方、それは意味を棚上げして道具として使うということだが、その間に大きなずれがあることを指摘したい。

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2007/01/15

『聖書と現代社会』を紹介する

070115  これは、クリスチャンにとって、たいへんな本だ。とうとう教会の内部から、ほんものの声が出てきた。イエス自身(A)とキリスト教・教会(B)とを分けて考え、(B)の問題性、さらには虚構性を指摘するような発言が、キリスト教の内部、聖書学の専門家から出てきた、ということだから(『聖書と現代社会ー太田道子と佐藤研を囲んで』(NGO「地に平和」編、新教出版社、2006/12刊)。

 私が面白がるにちがいない、おすすめと、クリスチャンの友人からこの本が送られてきた。この問題についてのふだんの私の主張を知り、よく話しもしている友人である。私は最初軽く考えていた。どうせ、何か少しラディカルなことを言って、最後は護教的になるに決まっている、と思っていた。読み始めたら、とても面白い。最後まで護教色を出さずに、すっぱりと言い切っている。これは画期的だ。イエス自身(A)と、イエスをキリスト(救い主)とするキリスト教(B)とは別もの、というのが、僕に限らず、キリスト教・教会から脱出し、キリスト教を外から批判する立場にいる人々の主張だ。この本は旧約聖書学者・太田道子と、新約聖書学者・佐藤研を囲んでの座談会の記録だが、この二人の聖書学者は、イエスとキリスト教を分けて考えることを明言している。違うとすれば、インサイドにい続けようとしていることである。

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2006/12/02

科学と信仰、柳澤桂子のたどり着いた極点

 「文藝春秋」12月号の「般若心経・いのちの対話」を興味深く読んだ。柳澤桂子と玄侑宗久との往復書簡である。特に興味をひかれ、また疑問をもったのは、柳澤が苦悩の果てにたどり着いた世界観・宇宙観というか、宗教観というか、信仰の到達点を語りながら、それがいずれ科学によって明らかにされるはずだ、と強調することである。

 柳澤は、宗教と科学が同じひとつの目標を目指していると信じ、その方向へ思索を進めようとしている。これは無理なというか、まったく不要で、不毛に終わるに違いない。そう私はいってあげたい、と思った。柳澤ほどの極限状態での思考を経ていない私ごときが、大きなことをいえないのだが、柳澤があのような境遇の中で行き着いた極点で、なお大森荘蔵の指摘する「知の呪縛」(後述)に囚われているのが気の毒に思える。生命科学者であるだけに、すべてが科学の言葉で説明がつくはずという科学主義にこだわっている。科学でそんなにがんばらなくていい、もっと解放されたらいいのに、と願う。

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2006/09/24

イスラムの強さ

 野町和嘉の写真展「イスラーム巡礼」で強く感じたのは、イスラムの人々の信仰の強靱なことであった。会場(吉祥寺美術館、9/16ー10/29)を出て、祝日夕方の吉祥寺駅近辺の雑踏に混じり、メンチカツを求める長い行列の脇をすり抜けるように歩きながら、たった今見てきたライラトル・カドル(ラマダーンの聖なる夜)の礼拝を撮った俯瞰大画像を思い出していた。米粒のようにしか見えない一人一人が、世界中からこの場所をめざして集まり、何百という輪をなして頭を下げている。百万人がこの夜一つ場所で祈りをともにしている。あるいはカアバ神殿を回る巡礼者の渦、ラフマ山で朝日を浴びながら一心にコーランを誦じる姿。同じ群衆、人の渦とはいえ、なんという彼我の違いであることよ。

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2006/06/27

『ダ・ヴィンチ・コード』、なぜ陰謀説はかくも人を魅了するのか

 遅ればせながら「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだ。キリスト教のルーツに関連するテーマを扱っているらしいと聞き、関心はもっていたのだが、読む時間を取れなかった。新彊ウィグルへの旅に文庫本を持参し、移動などひまな時間に読み進め、帰るまでに読み終えた。

 期待はずれだった。イエスの血統という謎めいた話で気を持たせながら、次々にサスペンス溢れるストーリーが展開し、暗号解読が絡み、謎解きを阻もうとする秘密組織が暗躍するなど、たしかに読むものを飽かせない。じつに精緻に構成され、よくできたサスペンスドラマだと思う。しかし、軸となるイエスとマグダラのマリアの話や、血統を守るための秘密組織などが、インディ・ジョーンズを連想させる聖杯伝説(なぜ西欧人はこんなホラ話を好むのだろう)とからんでくると、最初からいかにも作り話っぽい。どうせフィクションだからいいじゃないか、とはいうものの、期待したテーマにリアリティを感じさせるものがなさそうだと、早い時期にわかってしまい、その点では興味を失ってしまった。後はこの作り話をどれだけみごとに引っ張るかだけの興味で読んだ。

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2006/05/29

『ユダの福音書』の受け止め方

 最近「ユダの福音書」が発見され、話題になっている。これは、とうに異端とされていた文書の再発見に過ぎないと、簡単に片づけることもできる。私には、キリスト教とその正典とされる新約聖書の成り立ちについて、また正統と異端について、さらには現在のキリスト教のあり方について、ひいては宗教なるもの一般について、あらためて考えるきっかけを与えてくれた。そこまで大きく論点を広げてしまうと、論じきれないが、少々考えの筋だけでも書きとめておこうと思う。

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2006/02/17

イスラムを怖がる風潮

「デンマークの新聞で始まったムハンマドの風刺画に、イスラム人が怒っている問題。収まるかと思ったら、各地に飛び火して、むしろ拡大しているのは怖いわね。どうしてこうなっちゃうのかしら」
「そうだね。一昨日はパキスタンでは死者が出たって。僕らも行ったことのあるパキスタンだけど、ラホールとか、ペシャーワルなんかで、外国人の店というのか、外国製品を売っている店が攻撃されているらしいね。トヨタの店もやられたらしい。

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