2009/02/24

利己心から強欲への暴走を止められるのか

 オバマ大統領は就任演説の切り出しの部分で「私たちが危機のさなかにあるということは、いまやよく分かっている」として、二つの点をあげた。第一は暴力のネットワークとの戦争状態。もう一つが、経済危機である。これについてはこう述べている。

 経済はひどく疲弊している。それは一部の者の強欲(greed)と無責任の結果だが、私たちが全体として、困難な選択を行って新しい時代に備えることができなかった結果である。(朝日新聞訳)

 米国の金融界の暴走の結果、世界全体が経済危機に陥っている。それが一部の者の「強欲と無責任」が引き起こしたものであり、政治経済システムがあらかじめ何らかの措置を講じて、その暴走を抑制できなかった。防止措置をとることは「困難な選択」だった。しかし経済システムが向かおうとしていたのは「新しい時代」であって、「困難な選択」をあえて行っての「備え」が必要だったのだ。短い言葉で、そのように指摘している。

 このような危機が起きたのは、経済活動を理論的に分析し、指針を与える「経済学」そのものに問題があったのではないか、それも基本的なところに問題があるのではないか。私はそんな疑問に囚われて、素人なりに読んだり考えたりしている(すでに2回、このテーマで書いている。その1その2、もごらんいただきたい)。

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2009/02/04

池田 vs. 五十嵐論争がきっかけ

 現在の経済危機の中での雇用問題を、一部のエコノミストが分析しているのを聞いたり読んだりした際に覚えた疑念を、この分野については素人だが、自分なりに考えてみたいと書きはじめている。前回は素朴な疑念をそのまま書いてみた。エコノミストが経済問題を論じる際に使うツール(経済理論)は、経済現象の事実にもとづいて構築されたもので価値中立的だ、というのは本当にそうなのか、ということだった。「事実」というのは、現実に起きることはかくかくしかじかだ、ということである。それに対して、現実に起きていることは、良くない、間違っている、このようにす「べき」だというのが、「価値」である。経済理論は、そういう「べき」に中立的であるというが、それは本当か。

 このような問題に気づいたのには、じつはきっかけがあった。今回はそのことについて書いてみる。池田信夫という人のブログある日のエントリが気になった。このエントリには事前の経緯があった。池田が五十嵐仁という法政大学教授の書いた本(『労働再規制』)を「読んでいけない」本という項目に入れて書評した。それに対して五十嵐が自分のブログで6回にわたって反論を書いた()。それに対して池田が回答したのが上記のエントリであった。それが私の目にとまり、私に問題意識を喚起したのである。いささか細部にわたるがおつきあいいただきたい。

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2009/01/31

小分けして、片付けていく

 前のエントリに、大きな問題を抱えて、にっちもさっちも行かなくなった現状を書いた。ふと思い出したことがある。仕事術のヒントである。大きくて、難しい問題は、小分けして、できるところから片付けるといい。マネージメントの本でも読んだこともあるし、現役時代はそれでやってきた。退職後、時間があることをいいことに、あれこれの問題に興味を持ち、それをできるだけ包括的に、原理的なことから考えていこうとするようになった。そんな傾向に気づく。身の丈相応に、当座の納得ですませばいいのに、深く掘り下げようとする。それではいつまでもファイナル・アンサーに辿りつけない。第一、そんなものはありっこない。とりあえずの答えでいいのだ。そう気が変わると、気持ちも楽になった。

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2007/05/28

断片的に、現状を

 これは私の現状報告的なメモである。私の生活が、いかにゴチャゴチャであるかを、自己描写的に書いておこう。それぞれにまとまったエントリに発展させるつもりもあるが、それには時間がかかる。このところ忙しく過ごしているので、断片的なメモとする。

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2006/01/11

レヴィナスに「女性なるもの」の教えを請う

 一つ前の記事(「なぜ、男は老いに弱いのか?」を読む妻)を、私はお笑いを一つ、というようなつもりで書いたのだが、私が書くと、どうも真剣な告白だと受け取られてしまうようである。コメントを書きこんでくださる方はいらっしゃらなかったが(今朝、お一人からいただいた)、会った友人からのダイレクトな反応や、ダイレクト・メールで書き送っていただいたご意見は、どちらかというと額面通りに受けとって、心配してくださったようだった。真面目を装いながらおかしみを書くという練達の文才が、私にはないようだ。

 さて、その記事の中で、男と女の問題を、幼時の刷り込みだなどとこじつけて、逃げを打ったが、それを書いたことが、心に引っかかりを残した。「女は(男と比べて)弱い器[うつわ]であるから」という、聖書の言葉を引いて、それは聖書の文書が書かれた古代の女性観を反映して、偏向しているが、とことわってみたものの、ほんとうのところどうなのか。男と女は違うのか、その性差は根元的なものなのか、ボーヴォワールなど言うように、男性中心の社会が勝手に形成してきた偏見に過ぎないのか。一度しっかり考えておく必要があるな。そんな気持が、レヴィナスの女性論の読書へと私を向かわせた。なぜレヴィナスかというと、どうやらこの人は、性差が根元的なものだとしているようなので、この人の考えを聞いてみようではないか、というわけなのだ。レヴィナスについては、おいおい書いていこうと思うが、男と女は違うのだということを、自分の思考の主要な帰結のひとつとして堂々と主張している、希有な哲学者である。彼の凝縮された言葉には、根元をのぞき見た人のみが語れる、圧倒的な力がある。

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